2017年6月22日木曜日

杉並区天沼物語ー野際陽子さんも住んだ土地

1.「ご対面」の相手はクラスメイト

 亡くなられた名女優・野際陽子さんのご冥福を心から祈りたい。野際さんと農業・商業との関係は薄いはず。だが私はいま終活のため、本ブログで「農産物流通の昭和後半史と私」を連載中。自分史のなかで野際さんが少女期を過ごした東京都杉並区天沼のウエイトは高い。なにせ私も0才から49才まで過ごしたのである。野際さんとの接点と言えば、①小学校の同学年生である。中学3年のクラスメイトであった浅賀隆君(故人)が、昭和30年代後半頃と思うが、テレビの野際さんとの「ご対面コーナー」番組に出た、③姉が立教女学院中等部、高等部の野際さんの3年先輩であったこと・・・の3点ほどに過ぎない。  

 私が杉並第五小学校の6年4組、野際さんは6年3組。壁一つ隣で学んでいだのだが、野際さんの動向はまったく記憶にない。だが、フランス人形のように瞼が大きく開閉し、日本人離れした美しさ、成績も優秀・・・こんなわけで野際さんは学年を超えた憧れの君であった。6年3組の友人(小・中学時代)に聞くと、野際さんが有名人になり忙しくなる前の昭和期には、クラス会にもよく出席し、野際さんの経営するレストランでもクラス会が開かれたこともあるという。なお小学6年時の話に遡れば、男女3人づつの遊び仲間で、石神井公園(後記)にボート漕ぎに行ったり、クラス会として高尾山にハイキングに行ったり、一緒にドッチボール、ソフトボール、けん玉、おはじきなどをした記憶が鮮明だと言う。美と知だけでなく、気取らない庶民感覚の人柄で、みんなに愛され続けたことは間違いない。 

ここでは故人の御威光を借り、荻窪駅北手の天沼を全国に紹介したい。野際さんが少女期を過ごした町の環境が少しでも伝われば幸いである。後半は私の自分史に近いが、裕福さと貧乏の同居した歴史を持つ変な母子家庭に育ち、秀才だった兄2人、姉1人と異なり、末っ子としてより自由奔放に天沼の枠を超え、広い空間で遊んだ。これが成人し、29才で脱サラして独立独歩の人生を歩んだ原因と思っているし、天沼を越えた周辺部を語るにふさわしいとも思っている。。

  
ネット情報によれば、「江戸時代は多摩郡天沼村で、寛永12年(1635年)に日枝神社(赤坂の?)の社領になった」とある。また天沼の語源は私が後で推定した通り、地元にある弁天池が沼地をつくり、「雨沼」と呼ばれていたことにあるようだ。天沼は大正12年(1923年)の関東大震災のあと、住宅不足を補う地区として急速に宅地化が進み、軍人が大挙押し寄せたと聞く。私が小学校のころはあまり軍人さんを見かけなかった。ただし、小学3年のとき集団疎開で姉と長野の別所温泉に出向いたあと、母は近くに住む小沼さんという軍人を下宿させた。やはり家族が疎開し1人になったためだ。この人は我が家にいる間に少将から中将に出世。戦争末期には母に「負け戦になっている。奥さんも早く東京を離れなさい」と助言をしてくれた。この軍人を除けば友人の親が軍人だったくらいで、実際に軍人が多く居住していた地区は荻窪駅の南側だったようだ。南側には戦中に首相を3回経験した近衛文麿氏の住んだ荻外荘もあり、重要会議が開かれたという。 
 

荻窪駅の天沼地区・・・昭和の15年、私が幼稚園くらいには、ところどころに畑を残すのみで、ほぼ現状に近い街並みになっていた。駅南には豪邸地帯もあったが、北側の天沼は敷地50~60坪の平屋の家がほとんどの並みの住宅地だった。我が家を例にとれば敷地50坪の建売を購入したものだ。平屋で洋室1を含む計6部屋。だが東隣との塀の内側には細いイチョウの木が10本ほど植えられ、1坪の裏庭にはクリが1本あり、表の庭にはウメの木、アジサイ、ヤマブキ、アオキなどが植えられ、垣根はカナメ。現在と比べれば、緑の量が3倍ほどだったのではないか。  

浅倉、浅賀、関根、玉野といった旧農家が、住宅街の地主さんでもある。地主さんから地上権のみを買う・・・という姿の所有関係が多かった。地主さんの敷地は広く、ケヤキやイチョウの大木、スギやヒノキも多数植わっていた。つまり環境面で優れた住宅地と言えた。自動車のないに等しい時代で、家の前の道幅は4メートルほどだが、戦後ある時期まではこの道路で3角ベースボールをやったくらい・・・建物は必ず90cmひっこめて建てられ、あまり圧迫感がなくゆったりと遊べる環境であった。今は道路端ぎりぎりの2階建てが多い。10軒に1件ほどの割でマンションも建っている感じだ。  

野際さんの住まいは旧・天沼3丁目、私の住んだのは旧・2丁目だが、特に沼が目立ったのは1・2丁目と想像する。八幡神社の西手奥に湧水の出る弁天池があり、私が幼児のころもごく少ないが湧水が流れ出て、家の南50m先を流れるどぶ川の水源になっていた。明治・大正期には弁天池の湧水量が多く、どぶ川流域が沼だったと推定される。このため戦時中に防空壕を掘ると、60cmほどで水が湧き出た。戦火の中、天沼に1人残った母は「泥土に埋まるのはごめん」と空襲時には壕でなく押し入に逃げ込んだという。  

2.杉五小学校が地域のヘソ 

昭和初期の話によると、荻窪駅を降りると、次の西荻駅最寄りの東京女子大の尖ったチャペルが見え、手前に荻の花が一面に咲いていたという。しかし私の4才時の昭和15年ころには、中央線の北を走る青梅街道沿い300mほどに駅最寄りの商店街が延び、西荻方向にさらに飛び飛びながら商店が延びていた。北に向かう道路はサブ的で3本あった。西側から教会通り、八幡神社通り、稲荷神社通りと呼ばれた。教会通りには衛生病院に付帯し教会があり、通りに古本屋が2軒ほどあったのが印象深い。  

どちらかと言えばメインと言える八幡通りの商店街を越えると八幡神社にぶつかり、やや鍵の手に折れてさらに北へ進むと杉五小学校(現在の天沼小)がある。駅から900mほど、約11分である。ここが天沼のヘソと言える。他に小学校はなく、天沼の児童全員が通ったからだ。学校の北手のバス通りを「天沼本通り」とか「日大二校通り」と呼び、荻窪駅発のバス路線が西武池袋線の練馬駅まで延びていた。乗り継ぎをすれば中央線の阿佐ヶ谷、高円寺、中野駅にも行けた。  

バス道路は商店街らしき街並みになっていたが、杉五の北側のバス道路を越え、1分もかからないところに野際邸があった。したがって杉五小の校庭は野際さんにとって自分の庭のような存在だったはず。付近にはケヤキに囲まれた地主さんの広い屋敷もあった。  

野際さんの家のすぐ前の道路をさらに北へ300mも進むと、妙正寺川という流れがあって、当時は井草田圃と呼ばれている田園地帯だった。戦後の話になるが、戦時中に西荻窪寄りにあった中島飛行機の工場が爆撃され、それた爆弾が井草田圃に落ち、すり鉢状の爆弾池が2つあった。杉五小脇にあった文具店の主人が和服姿でよくフナ釣りをしていた。  

妙正寺池からコンコンと水が湧き、やや離れた上流から下ってきた川にそそぐ。この川までの50mぐらいには長さ60cmほどの青藻がゆれ動く清流。その間をフナが行き来していた。いたずらっ子であり、釣り好きだったから、井草田圃や妙正寺川に出向く頻度は近所の子供仲間の数倍多かった。野際さんも幼いころ井草田圃に数十回も訪れ、四つ葉のクローバーを探がしたり、網で魚をすくったはずだ。現在では妙正寺川もコンクリートで囲まれた人工的な川になり、川岸一杯まで人家が建っている。  

 天沼の西北に清水町というのがあり、こちらは豪邸が多く、文人の井伏鱒二さん、将棋の大山康晴さんが住んでいたが、天沼はごく普通のサラリーマン住宅地。教育熱心な地域ではあったが、特に有名人が多く住む地区ではなかったようだ。だが弁士の徳川夢声さん(駅近くの商店街の中)、作曲家の草川信さん、小説家の藤原審爾さん、フランス文学の河盛好蔵さんなどの表札を見て育った。なお太宰治さんも一時、天沼方面の安アパートに住んでいたようである。昭和40年代以降の有名人としては野際さんが光る存在だが、すでに荻窪を離れていたかもしれない。もう一人変わった有名人をあげれば、野際さんと同年齢のトップ・ファッションモデルの故・松本弘子さん(没・平成15年)があげられる。晩年フランスに在住し、岸恵子さんなどとも交流があったはず。我が家の3軒先に住んでいた。お父さんは製糸会社の役職についていたはず。姉の弘子さんにちょっかいできるはずもなく、弟さんの学生帽を取り上げたことがあるが、取りに来ないので弱り、玄関に置きにいった覚えがある。松本弘子さんの身長164cmに対し、野際さんが163cmで、野際さんもモデル並みのスタイルだったことがうかがえる。  

今は、本天沼という地名もあるが、昔は南から北にかけ天沼1丁目、2丁目、3丁目と連なり、各氏神として八幡神社、熊野神社、稲荷神社が配置され、銭湯も1つずつあった。そして杉並第五小学校には、戦時中他校から多くの見学者が来た。模範校と言えば、ちょっぴり軍事色の豊かな学校にも通じてしまう。毎朝、朝礼の前に天皇の御真影を祭る奉安殿があり、この前を太鼓に合わせドンドン・エッサと回り武運長久を願った。他の学校といえば天沼2丁目に私立の日大2中・高校(一時敷島女子中学もあり、これを吸収)があった。女優の松坂慶子さんが通った学校である。2丁目の我が家の近くに日大幼稚園(日大系幼稚園はここのみ)が古くからあり、日本大学系列が古い時代に新天地として狙ったエリアのようである。私や松本弘子さんと同様に野際さんもこの幼稚園に通ったはように思うが確かではない。  

3.集団疎開で別所温泉に 

母の教育方針は「自由放任・自立主義」で、好きなようにして良かった。このためか、人見知りせず誰とでも付き合った。小学1・2年のころは、ドイツ人のオワ・ケージロウという友人の家に、電車に乗り1人で3~4度も遊びに行った。立教女学院もある三鷹台の洋風の白ペンキの建物が新鮮だった。また同じ頃、自宅の東南1kmにある伯母の家をよく訪ねた。長女、長男、次男、次女の4人の従弟がいて、高等小学校に通うガキ大将の次男が、近所の子供5~6人と一緒に遊んでくれた。八手網を使った魚すくい、凧揚げ、ベーコマ、メンコ等、子供の遊びの手ほどきを総てしてくれた。帰りには沢山のフナやザリガニを貰って帰った。誰よりも高く凧が飛ばせるよう、大きく巻かれた凧糸をもらったこともある。 凧揚げが得意になり、野球服姿の奴凧を自分で作りもした。 

前後するが、私が小学1~3年のとき姉も同じ杉五小の4~6年生であった。野際さんに遠く及ばないが、姉は小さく、やや顔の黒い「ネズミ型美人?」であった。学校の朝礼前の遊び時間に、同級生や上級生に姉が追いかけられていて、「ねいちゃんをいじめんな」と割ってはいたものだ。男の子が可愛いためちょっかいを出しているのを、いじめていると思ったからだ。  姉が一度だけ自分の美を自慢したことがある・・・立教女学校卒業後、東京駅八重洲口にあった八幡製鉄本社に就職し、残雪のある富士山か丹沢山に行った後、「みんなにミス八幡と呼ばれていて、大切にしてくれるのよ。だから険しい山にも登れた」と言った具合である。この姉を生んだ母も41、2才当時は輝いていたようだ(すでに未亡人で女社長)。幼稚園で多摩川に遠足に行った際、カメラマンが母に付きまとったようで、卒業時の記念アルバム集に母の和服姿が多数出てきたものだ。女の小林園長先生という方は、なかなかの人格者だった。娘か息子の授業参観日に園長OBとして招かれていて軽く挨拶をしたのだが、父兄全員の前で「今日は、ここの卒業生が来てくれて嬉しい」と紹介してくれた。

昭和19年、私が小学3年、姉6年の夏、戦火を避けるため児童や老人の地方疎開が始まった。野際さんは石川県生まれで、そのあと富山県で2才児まで過ごしたそうで、出身の石川か富山の親類を頼って縁故疎開したはず(ネット情報では実際は富山県に)。集団疎開の方は3~6年生の1/2ほどに及んだのでは。疎開先は現在真田の郷のある上田市。当時、長野県小県郡別所村の別所温泉である。6軒の旅館に分宿し、宿でも勉強したが地元の別所小や隣村の塩田小に、隊列を組み軍歌を歌いながら通った。第2次集団疎開の1~2年生は塩田村のお寺に入った。私の兄たちは、それぞれの旧制姫路高校や浦和高校があった姫路市、浦和市が疎開地と言えた。ともに地元に親戚が住んでいたからだ。  

野際さんは後に立教女学院中学校・高校に進むが、別所温泉の別エリアに立教女学院小学部が疎開してきた。まったく交流はなく、当時3年生の私が事実を認識したのは戦後である。私の集団生活のスタートは恵まれたものだった。6年生の姉に従妹も加わり、「男女の兄妹、姉弟等のばあい家庭のぬくもりを維持するため」との配慮から、3人一緒に男女兄妹寮の中松屋という旅館に入った。この中に後に東大を出て昭和28年に日本音楽コンクール作曲部門第1位に輝き、長じて桐朋学園大学の学長になった故・三善晃氏もいた。美男美女の兄妹で、2人でバヨリンを演奏してくれた。

 ところで、別所温泉の背後には夫神山、女神山があり遠足でも登ったが、夏場には中腹まで行き、炊事や暖房用の丸太を3~4回は運んだものだ。自分の背丈ほどの丸太に手ぬぐいを結びつけ、片方の端を背にかけたり、そのまま引いて1~2キロ下ってくるのだ。小学3年生にとっては結構厳しかった。休憩中に山の小川で沢蟹を探すのが楽しみだった。また山の中腹には氷室という夏でも氷を保存する横穴があることを知った。山にはキノコ採りにも行ったが、別所が松茸の優良産地であることを知ったのは戦後である。

苦しい想い出と言えば、やはり空腹とシラミの攻撃だ。ご飯の量が少なく、またご飯には必ず菜っ葉や、大豆、大麦の粒が混じり、あとは味噌汁か漬物だけ。おかずとして魚が出たのは鯉のあらい、鯉こくの計3回、肉はゼロ回。上田から別所にかけ水田用のため池が10ほどもあり、鯉が飼われ唯一の海のない県の水産資源たった。冬場になる前になると親元に「大豆のはいたお手玉を送れ」と催促。大豆を炬燵で炒って食べるためだ。歯磨き粉すら食べた。病気になれば通院のため外に出られる。私達3人はこっらの行為は一切しなかった。外出できた連中は畑 でキュウリ、トマトなどを盗み食いできるので仮病を演じる仲間もいた。シラミは見たことのない生物。知らない間に全員の衣服の縫い目に何匹も並び、取っても取っても減らない。

 唯一の救いは温泉と委託錬生だった。旅館の内湯は木の樋を流れてくるためぬるい。このため外湯の「石湯」に出掛ける。別所は盆地気候で雪は少なく、外気は極端に冷える。外湯を出て、手ぬぐいを一振りすると、コチコチの板状になるが、広い石で囲まれた湯につかり、身も心も癒された。委託錬生は、毎月1回隣の塩田村の農家に泊まりに行く行事。名目上は作業のお手伝いをして帰るのだが、農家の人は疎開児童に手伝いなど一切させず、逆に最大のもてなしをしてくれた。第1回のときは久しぶりにたらふく食べ、帰路の雪中行進のさなかゲイ・ゲイと嘔吐するものが続出した。私たち姉弟が訪ねた農家は夫婦に女の子2人で迎えてくれたが、実際は上3人の男子総てが戦地に赴いていた。戦争という悲劇をしょい込んだ零細農家だった。ご主人は「いまスズメを捕ってご馳走するからな」とカイコの蚕座でわなを仕掛け、それが失敗に終わると山にウサギ取りに出かけてくれた。

もう一つ、楽しいこととして父兄の疎開先訪問があった。母は待てども待てどもきてくれず、来たのは冬になる寸前。東京で疎開児童のため砂糖や菓子などを集める仕事をし、忙しかったのだが、そうした知らせもくれなかったのだ。来ても私達姉弟に会ってくれたのは2回で計2時間ほど。甘える暇もなく帰京した。面会のルールが決められ、母は忠実に守ったのだろうと思が、「子を甘やかさず」の母の姿勢も関係していた。

 翌年2月には姉と従妹は中学進学のため東京に帰って行った。終戦の昭和20年のことである、下町地区に帰った6年生の中には、3月15日の東京大空襲で亡くなった人も多い。この帰京は行政の大きな判断ミスであった。母は「私立の中学は負担が重く入れたくない」と考えていたはずだが、「ミション系の立教女学院であれば爆撃されない」と考え、一人娘の姉を立教女学院・中等部に通わせた。3年遅れで入学したお嬢さん育ちの野際さんとは、入学動機がまったく異ったはず。なにせ母は、当時の金で5万円も残しておけば子供4人を最高学府に行かせることができる・・・と信じていた。が、戦後の物価高騰でアッという間に消えてしまった。戦後姉は、亡父の着ていたウールのワイシャツを加工した上着を着続け通学していた。幼いなりに姉に同情したものだ。
 

4.「これ以上死なせたくしない」で天沼に

・・・ここからは、特に自分史に近いものになる。お許し願いたい。前後するが環境の良さを考え、我が家が家族6人で天沼に引っ越してきたのは昭和11年である。私がゼロ才児の時だ。父は岡山で若くして小学校の校長をしていたが、「教育者の教育をしたい」との大志を抱き、まず大阪の宝文館という出販社で母とともに修行。その後東京に出て新宿区牛込で「文教書院」という出版社をスタートとさせた(現存する文教書院は昭和18年に母が会社を閉じた後、戦後にできた別会社)。大正年代である。さらに「先生たちと交流を深めたい」と、日本教育会館の隣の千代田区一つ橋2-9番地(通称・神田地区)に事業所を移した。「教育論叢」という月刊誌も出したくらだが、各種文学書、小川未明や浜田広助の童話、先生方の参考書で「趣味の小学・・・国語、算数、理科、歴史」といった学年別指導本など200~300冊ほどを出版したと思われる。農業関係では「村の学校」(昭和16年刊)や、宮沢賢治関係の図書もある。 ネットで「文教書院+近藤弥寿太 &てい」で文字検索してもらえば、5年ほど前までは5項目ほどが出てきた。父母を知ろうとするのではなく、2人が出版した貴重な書籍を今も探す人がいる証である。 

当時の神田地区はすでに地表全体がコンクリート。犬に土を踏ますためわざわざ靖国神社に散歩に行くしまつ。地元の九段中学で成績もトップながら機械体操や剣道に励んだ長男、次男が次々肺結核で亡くなった。視察者向けの模範演技も多かったことも原因である。母は「これ以上子供を失いたくない」の一心から、私が昭和11年1月に生まれたあと、天沼へ引っ越したのだ。11年は2・26事件の年だ。忌まわしい太平洋戦争へ向け、軍人が暴走を始めた年である。2・26事件の際、鎮圧の戒厳令司令部の置かれた九段の軍人会館は目と鼻の先である。しかも誕生のわずか44日後に事件は起きたのである。  

せっかく環境の良い天沼に引っ越したものの、私が3才のとき父までが結核に感染して亡くなる。この年に私は中耳炎を患い、隣町の阿佐ヶ谷にある篠原病院で手術を終え退院し、同じ阿佐ヶ谷にある河北病院を訪ねたときは、父は「すりつぶしたジャガイモ」も食べられず、間もなく亡くなった。だから、兄や姉と違い父の面影は記憶にまったくない。したがつて父の背を見て育つではなく、母の背のみ見て育ったといえる。ともあれ昭和14年ころに母、3男、4男、長女、私の母子家庭がスタートした。母は女社長となり有能な番頭の村上政吉さんという方に支えられ営業を続け、荻窪から当時の都電で神田まで通った。私は留守宅で女中さんに負ぶわれる毎日。おかげで、今も胸の肋骨のところが女中さんの背に合わさるかたちで軽くへこんでいる。ままならない時は、母は私を抱き、タクシーで支払か集金のためか、夜の神田かいわいを動き回った。

母は戦火が極限に達する前の昭和18年に出販社を閉じた。紙の配給権を講談社に譲るとともに、村上さんは講談社に移り、疎開地の北海道で「札幌講談社」代表を担ったのである。札幌講談社では「北海道の農村と文化」なる本を昭和22年に出版した記録がある。また戦後、我が家の窮状を見て、残された紙型をもとに1冊の本を再出版してくれた。村上氏は我が家の大恩人である。

 母は事業所のある神田に通い続け忙しく、兄たちに「勉強しろ」と言わなかった。兄たちは父の教育者の姿を見て育ったため、言われなくても進んで勉強した。母は教育者の父の商売下手を補う存在だった。残された色紙に父は「下渡だとて馬鹿にするないこんりんざい。酔うたためしはありはしないぞ」と書き残したくらいで酒が飲めず、来訪した客とお酒をくみかわしたのは母であった。帳尻合わせも母の仕事で、金を残したのも母の力が大きく、私が生まれたあとの住宅の引っ越し資金も母の才覚でねん出し、父の死に伴う墓の購入も母の無尽講によるもの。多摩墓地の墓は同一区画の他の墓が1坪スタイルに対し、父の墓は唯一4倍の4坪スタイルである。「教育者の夫に金の苦労はさせたくない」との配慮があったのだろう。だから父の死後も企業として存続でき、5万円もの貯金を残し(終戦直後は1戸5000円で住宅が買えた)、戦火はげしい昭和18年に営業をやめることができたのである。

 兄2人は女社長を母が続けた家庭が豊かな間に大学や旧制高校に達していた。3男は家から5分の当時ごく平凡なランクの日大2中を経て戦中に旧制姫路高校(母の出身地のため)から国立東京工業大学応用化学科、同・大学院(5年)と進み、4男は当時「不良高校」と言われた地元近くの旧制中学(5年制)を飛び級の4年で卒業。終戦の翌年に旧制浦和高校から国立東京大学の電気系に進んだ。私の友人のほとんどは、年の離れた兄2人の存在を知らない。小学校―集団疎開時代の姉の存在だけ見てきて、姉弟2人だと思っているはず。  

兄2人と姉の3人は唯一の6畳の洋間に机を並べて勉強した。兄の影響もあって、姉も数学、理科などはトップクラスだった。母は1人娘のため「何か個性を」と、天沼3丁目の桜井さんという油絵の先生のところに通わせていた。姉が貧乏ながら自信をもって立教の中・高等部に通えたのも、理系学科の強さと絵画のお陰のように思う。美術部の部長もしたようだ。だが日曜礼拝に通うことは1回もなかった。いずれにせよ豊かな時代に青春期をすごした3男と4男、斜陽母子家庭で主に育った姉と5男の私。この2つの組み合わせの間には見えない壁があったように思う。 

5.納豆売りで縄張り争いも経験 

姉が帰京し、4年生になったころ米軍の空襲も他所では激しくなったが、B29は米粒大の光をチカリチカリと放ち通り抜けて行く程度で、疎開児度は安全圏に置かれていた。「疎開効果」である。しかし食料不足は深刻さを増したようで、クワ畑は伐根されサツマイモ畑に変わり、別所小の校庭のはずれにいくつもの畑用の穴を掘り、道路で拾ってきた馬糞・牛糞を投入し、カボチャやキュウリやトマトの栽培も始めた。松の根からガソリン代わりの松根油を取り出すための、伐根作業も手伝った。

8月15日・・・終戦の玉音放送を聞いたのは、中松屋旅館の広間である。小学4年生ではガーガーと雑音もまざる放送内容を正確には理解できなかった。2~3日後に4年生担当(1学年1クラス)の先生に、小高い山の峠に当たる場所に連れていかれた。なぜこんな配慮をしたのか不明だが、先生は「日本がアメリカとの戦争に負けた。近いうちに駐留軍がこの地にも視察に来る。日本人として恥ずかしい行為を見せないように」と話した。実際、数日後にスプリングの効いたジープに4人ほどの米兵が乗りやってきた。

 私の戦後は20年12月の集団疎開から帰った日から始まる。野際さんの帰京時期は皆目わからない。東京へ帰り、高い位置にある中央線の大久保駅から見たら、焼け野原がどこまでも広がり、赤さびたバラックの陰で炊事する軍服姿の人が見えた。空には旅客機に変身したB29が朝日を受け飛んでいた。高円寺駅の近くまで爆撃にあった様子。その先の阿佐ヶ谷駅まで、線路の両側は強制疎開で空き地になっていた。 
 

杉五小の4年生として学校に出ると、さっそくお礼回りに合う。廊下でO君に殴られたのだ。先に帰り、恵まれた食事のお陰で彼は2回りも大きくなっていた。私はクラスで3,4番に小さかったが、母親譲りで気が強く(母は母の姉をよく泣かしたという)、2番目に集団生活をした上星旅館でサブ番長、番長が東京に強制退去させられた後、再び中松屋に戻ってからは終戦直後まで番長。番長として暴力を振るうことはなかったがが、番長になれば仲間の飯の一部を部屋に持ち帰らせ、余分に食事が得られた。食い物の不足する中で、「食事のごく一部だがカツアゲした」ことについて、すまない気持ちでいっぱいである。終戦直後に寮に傷痍軍人が出入り、この人の民主化のアドバイスがあってか?クーデターが起き、帰京までの4ケ月は孤立した存在だった。 

殴られたことを母に告げると、さすが気の強い母・・・「父兄会役員として、疎開児童の間食の調達など一生懸命してきた。校長先生と親しいから、今後いじめられたら校長室に行きなさい」といったあんばい。 

戦後、家に戻って分ったことは、4男の兄は戦火が激しくなるなか、子がない腹違いの姉のところに養子に入り姓が変わっていたこと(母は2番目の後妻)。だが大学卒業までは我が家に住んでいた。3男、4男とも我が家の良き時代に大学ないし旧制高校まで進み、テニス、音楽などにも通じ、後に互いの大学でソシアル・ダンス部を興し、我が家の洋室の机を脇に寄せ、従妹を呼びダンスのレッスンもしていた。家庭教師などのアルバイトで稼いでいたのでやや余裕もあったのだろう。当時兄が通ったダンスホール「カサブランカ」という名が、私の耳の底に残っている。 

帰京後すぐ平穏な生活に戻り、近所の3~6年生の8人衆・・・この上の2人を足すと10人衆。苗字のみ書かしてもらうと石黒、大塚2人、藤原3人、中野2人、高橋と私・・・で、とことん遊ぶ毎日となった。受験戦争などまったく、先生方も労働組合を結成しデモなどに出向き自習時間も多かった時代だ。缶けり、追いかけっこ、馬跳び、メンコ、ベイゴマ、そして新流行の野球と遊びの対象は豊富だった。当時、すでに高校生であった田中さんという方には、奥多摩の日原鍾乳洞近くとその他で2度キャンプにもつれていってもらった。物のない時代で、ベーゴマのシートがテントで、このテントを使ってのキャンプ。一回は川の中州でキャンプし、翌朝雨が降り急いで中州から避難したものだ。

一方で、金になるからと10人衆でガラス拾いをし、すぐあと阿佐ヶ谷方面の店から卸してもらい納豆売りも始めた。前の家の1年先輩の石黒さんと私だけは、小遣いがどうしても欲しい立場のため3年間続けた。私が5・6年、中1のときである。地元での商売は恥ずかしいので中央線を横切り、阿佐ヶ谷駅の南部方面で「なとーう、なとーう」とやった。長く続けると縄張り争いも起きる。路上で1度だけ取っ組み合いの喧嘩もした。阿佐ヶ谷駅近くの線路際には珍しく釣り堀があり、引き返す途中、しばし見学することもあった。  

収入は母に渡すことはなく、遊び道具の購入に消えた。石黒さんは主に友人たちに流行の「鯛焼き」を振舞うのに使っていた。母は私が小学6年ころには、家計の先行きに不安を抱き、昔発行していた月刊誌「教育論叢」の綴じ金具をはずしてばらし、リンゴの袋掛け用の袋を作り業者に納めいた。また文教書院の反故となった株券の端をホチキスで留め袋にし、これに塊り状の苛性ソーダを詰め、近所の薬屋に洗剤として買ってもらう仕事も始めていた。私は母に一番近いところにいたためその背を見て育ち、「おもちゃや野球のボールくらいは自分で稼がねば」の思いに至ったのだ。 

6.水泳の古橋にも会えた日大2中グランド 

戦後すぐベースボール・ブームだ。10人衆の中で資産家であるFさんのお父さんは、戦中でもゴルフ用具を持っていた。ゴルフボールをわざわざ壊し、芯のゴムボール分を取り出し、これに布を巻き、表にテント用の布を被せて、弾力性を持つ野球ボールを作った。当初はグラブもテント生地で縫って作っていた例も。バットは竹棒ですますこともあったが、さして高くないため、すぐ購入品のバットを使うようになった。 

当初は路上の三角ベース、ついで熊野神社うらの狭い空き地で社殿に向けドスン、ドスンとホームランを打つ・・・罰当たりなこともした。その後は日大2中のグランドも利用した。なにせ日大2中の庭は広く、東手に野球の立派なグランドがあった。2中は野球も結構強く、阿久根というピッチャー、橘というキャチャーがいたのを覚えている。このグランドは、一時都市対抗に出場する熊谷組に貸し出されていたほど立派だった。

陸上のグランドは1周300mぐらいあった。この陸上グランドには小学時代まで垣根が壊れていて自由にはいれた。10人衆で100m競争、幅跳び、3段跳び、槍(竹棒)投げ、マラソン(と言っても500mほど)の5種競技もした。ちょうど日本の競泳が華やかりし頃で、日曜にかの有名な水泳の古橋広之進選手が、日大の陸上部の合宿地である日大二高に遊びに来た。陸上部員と徒競走を一緒にしていたが、古橋は太くアヒルのような走りであったが陸上部の選手に負けていなかった。ところで陸上のグランドは野球には不向きだった。ボールをエラーすると、100mも追いかけねばならないからだ。  

新・文武両道の地区だった。7人衆のなかには年中クラス委員(級長)になるよな優等生ばかりで、私ともう2人が例外なくらいだった。小学5年のとき、6年生の3人は野球部のセカンドとサード、外野を守っていた。セカンドさんは後、東京大学の理系に進んだ。 

中学は誕生して2年目の天沼中学。「新制中学」というもので、生乾きの杉材を使った外壁で、窓ガラスは銀線ガラスと呼ばれた半透明の粗末なもの。このガラスはGHQが校舎のガラスが破れ放題なのを見かね、校舎用としてメーカーに特別許可したもの。中に金属製の線を入れ、強化したものである。校庭の外周は竹棒を立て囲ったもの。

 納豆売りもあって、中学入学とともに学業のほうがおろそかになっていた。小学6年のときの成績はクラスで4、5番だったが、中学に入るとともに成績は低下し、卒業のころはクラスで8・9位まで下がり、最上位の進学高校には進めなかった。金の面で満たされず、皆から「いたずら面で注目を集めたい」の衝動が働きいたずら小僧に。兄姉の異端児になっていった。中学1年のホームルームでは、奇妙な発言も飛び出した。「近藤さんたちは、昼休みに学習塾にいっている」と女子生徒のUさんが発言。なのことはない2・3人でイチジク泥棒に出かけるのを「ジュクに行こう」と言ったので誤解されたのだ。
 

カキ、クリ、イチジク泥棒も当時は「いたずらのうち」と許された。カキ泥棒に行ってトタン屋根の上に運動靴を置き忘れたことがある。履物から犯人が割れないかと2、3日心配し続けたことがある。中学の2階から樋を伝わて降りてみたり、美人下級生に2階からバケツで水を掛けようと思ったら、空のバケツまで落ちてしまったことも。おまけに逃げる際に、教室の扉にぶつかり粗末なため4つに割れてしまった。このときは歴史の担任で野球部の監督でもあるU先生が急ぎ駆け上がってきて、スナップの効いたげんこつを数発食らった。肥料用の汚わい樽をひっくり返し、近所の子供10人以上が我が家に押し掛けたことも。母は「うちの子ではない。きっとSさんよ」といったものだから、あとでクラスメイトのSにぼこぼこにされそうになった。

   
数学は兄姉ゆずりで得意科目。あとは理科、社会、歴史・地理くらいが得意で、記憶力が皆目だめで国語、英語は不得意だった。 数学のS先生はポチャリ型の美しい方。いたずらをすると、ヒヤリした手のひらで頭を押さえてくれる。ためによくいたずらをした。1人の友人と阿佐ヶ谷一の豪邸に住むS先生の自宅を一度訪ねた。納豆売りで毎日見ていた豪邸である。あとで知ったが、先生のお父さんは財界の重鎮だったようだ。アルバムを見せてくれたがビックリ。4男の兄の写真が出てきた。先生の兄さんと私の兄が大学の同期生であったのだ。先生の兄が5年前かに亡くなるまで、一緒にゴルフを続けただけでなく、兄が勤めた3つの会社の最後の日本電気は、先生の兄の引き立てもあった職場のように思う。私は数学部門だけは良かった。高校1年1学期は数学部門の3評価ともAだったので、かろうじて兄に恥じをかかせずに済んだと思っている。この先生だけとは、いまも年賀状の交換を続いている。いま老人ホームにはいられている様子。
 

7.広い広い遊びの空間があった 

天沼から4kmの円を描くと、様々な遊び場所があった。西方面では2駅先の吉祥寺駅に井之頭公園があり、西北方面2kmに善福寺池や上井草球場、さらに西北方向深くの東伏見駅に早大プール、4km先に石神井公園、東方面1kmに阿佐ヶ谷プール、南東方向3kmに和田堀公園・・・と言った具合。お嬢さん育ちの野際さんでも、親御さんとこれらに1度以上は行っているはず。だが、私のばあいは男の中の代表的な遊びっ子であり、かつ自然が大好き人間。広い空間を自由自在に飛び回った。10人衆や学友と離れ、釣りなどは単独行が多かった。  

井之頭公園では池で数回泳いだ。藻の間をフナやコイがすいすい泳ぐ、「遊泳禁止」看板のある水面に向かい桜の枝から飛び降りて泳いだものだ。早朝出かけタコ糸でコイを釣ろうとしたこともある。池の下手にスワン・ボートのプール状の人工池があり、ここでも泳いだ。汚れた池でオちんちんにばい菌がはいり、はれたことがある。早大プールには10人衆で行き、50mプールの短辺の25mをリレーで折り返すのだが、泳ぎが下手な私は溺れそうになりながらリレーをつないだ。上井草球場は戦後しばらく六大学野球が行われていた。2~3人で外野席の裏のコンクリート壁をよじ登り、無料で観戦したこともあった。終戦直後のことである。小学校のときは野球部に同行し3~4回は早実の安部グランドにも行き、大の早大ファンに育った。岡本、荒川、末次と言った名選手の名を忘れない。 先輩3人を見るため、試合があるといつもついて行くようになり、監督のT先生は私の交通費まで出してくれた。 6年生になり、先輩3人の推薦で4月だけセカンドを守った。だが、坊ちゃん刈りの頭でマスコット的に女性徒からモテモテ。3~4人が2階の窓から「がんばれ」と応援するものだからエラーばかり。5月には恥ずかしいかぎりで部をやめた。

善福寺池は中学時の遊び場。4~5人で出向き、途中八百屋でタクアンを買ってかじりながら歩き、四宮町というところに着くと、先生連が住むアパートがあった。担任の先生とともに、クラスの憧れのマドンナが住んでいた(親が教師)。全員で「〇〇さん」と憧れさんの名を叫んで、善福寺方面に逃げるのだ。池につくと20m近くはあったと思われる浄水塔のてっぺんに登り、落書きをして帰ったものだ。早朝に行き、禁じられていた釣りもした。紐を付けた大きい瓶に餌を入れて池に投入、タナゴをさりげなく捕獲する大人も結構いたものだ。  

広い空間で遊び、多くのことを知る・・・こうしてこそ適用力も身につき、人間の機微が分かるようにもなる。この後、高校や浪人、大学の生活へと進むわけである。高校前期は主に3男が東京工業大学大学院の奨学金と夜間高校のアルバイトをしながら支えてくれた。すぐ上の姉が結婚、3男と4男が就職で家を出たあとの高校後期ー浪人ー大学時代を支えてくれたのは母だ。6部屋のうち3部屋に学生の下宿人を置いて収入を得たのだ。私は高校、大学と進むなかで、松坂屋の配達を夏冬休みにした。大学1年のときには、大学の友達まで配達バイトに巻き込み、友人2人は府中の学生寮から自転車で1時間以上も掛けて運送屋のある高円寺まで来た。学徒援護会にも度々出向き、いまサクラで有名な千鳥ヶ淵の土手で当落を待ったものだ。英語や国語は苦手のため家庭教師は不適で、建築現場などのアルバイトが多かった。立教女学院の建築現場にも行き、仲間と共に行き来する女学生を遠望し、楽しんだ想い出もある。

8.学生運動という特殊体験も

高校ー浪人1年-大学時代についても少しだけ触れておきたい。誤解を受けやすいのであまり触れたくないが、学生運動時代のことである。社会科好きでもあり高校1年の時、佐田先生という日本史の先生の影響もあって左傾した青年になっていた。母のタケノコ生活を見て育ったことももちろんある。佐田先生はマークゲインの「アメリカの内幕」「朝鮮戦争の内幕」「ニッポン日記」などを読んでくれ、古事記や日本書紀のストレートな批判もしてくれた。そして高校2年時に例の「血のメーデー」を 担任教師の許可を取り2時限から見学に行き、一切騒動に参加せず「見学」で1日を終えたのだが・・・。

学校に知られていたため、警察に呼ばれ事情聴収。地元と学校のエリアを担当する杉並と高井戸の2警察署で、「騒乱罪幇助容疑」で12回ほど調べを受け、最後に指紋まで取られてしまった(本来は未成年の場合、親の許可なく指紋は取られない)。これがきっかけで高校2・3年、浪人1年、大学4年の計7年間は学生運動の最前線に立っていた。大学3年の後半は学生会委員長、2活動団体のキャップ・・・と学生運動の3長を半年ほど兼務した時もある。学生運動といっても「学園紛争」の少し前の暴力には染まらない時代で、男女別学(昭和28年=高校3年時)の反対運動、歌声運動、原水爆反対運動など穏便な活動だった。第五福竜丸の乗組員の久保さんが死の灰をかぶり亡くなった。地元杉並区の図書館長であった国際法学者の安井郁夫氏と家庭の主婦24人が中心になり、原水禁運動が燎原の火のごとく全国に広がり、浪人中は原水爆禁止の署名運動が中心であった。なお久保さんの娘さんからもらった葉書は今も残っているはず。

予備校に1学期だけ行き、2学期はオルグで地域の高校や東京女子大の組織を回る仕事もし、2泊3日のオルグ養成学校にも参加し、予備校へ通わず運動づけ。自由放任主義の母で大学時代のメーデーには手を振りに来たぐらいだが、3学期になり母から「大学に是非行ってくれ」とのことで取っ組み合いの喧嘩をした。何も技術を持たない私が、いきなり社会に出てうまく行くはずがない・・・と考えた母の抵抗は妥当なものだった。そのため受験に間に合う2期校(試験が遅い)の東京農工大学農学部に受験・合格。本来、都立大学の法律系学部に行き、弁護士になる夢を持っていたが、前年すでに1回失敗している。「遅れた農業の道を選び、日本の発展に貢献するのも、大切な選択」と自身を納得させ、授業料の安い国立の東京農工大学農学部を選んだのだ。3年の自治会長時に砂川事件が起きた。友人であり同志の武藤軍一郎君というのが検挙され、その奪還闘争が全校あげて行われた。人前に出てシュプレヒコールの音頭を取るのが苦手で、一つ橋大学の指導者にそれを任せたため、学生総会でさんざん非難されたものである。 

学生の本分を忘れず、学生運動をする・・・をモットーにしていたので、授業に出ないことも多かったが、図書館で好きな農業の分野について独学もした。3年の終わりになると学生運動免除の風習があり、7月末の国家公務員試験に向けガリ勉をした。試験場などの研究部門に就職する仲間が7~8割という状態で、「威張れる官僚になりたい」というものではなかった。独学の効果も出たのか、農学職という国家公務員試験の約940人受験者中14位の成績。沢山の学生時代の試験のなかで最高の成績であった。農学科の仲間は農業経済、畜産、園芸、農業機械の各職を受験した者もいたが、農学職を選んだのは10人ほどいて、鈴木というのが7位でクラスのトップ。14位の私は2位だった。しかし2次試験(指紋も採られる)では学生運動のためか、英語が極端に不出来のためか、正確には今も分からないが、不合格になった。 

 行く場を失いかけていた私を救ってくれたのが、10人ほどの研究室の主任教授で、後に農工大学の学長になった近藤頼巳教授であった。保温折中苗代の権威者だが、本の出版で関係のあった農協系の出版社「家の光協会」に押し込んでくれた。公務員試験の一次14位という成績だけ知っていて売り込んでくれたようで、内申書の成績は近藤教授の担当する栽培原論のみA。あとはB及びCばかり。内申書を持って再度「家の光」に出向く小倉助教授に、近藤教授は「すまないが良くできるーではなく、あまり成績はかんばしくないーと訂正しておいてくれ」と、私がいるそばで言っていたのを覚えている。

 すでに学長になっていたか記憶が定かでないが、私ども夫婦が「家の光」で職場結婚した際には仲人になってくれた。月刊誌「家の光」は当時、月150万部ほどの発行で、雑誌とすれば日本一の発行部数であった。そこで働く職員の豊かな生活ぶりを見るにつけ、高校時代の思想は「過去の想い出」に変化していった。キザだが「世のため、ひとのため働く」という理念だけは持ち続けたつもりである。そして農業経営の近代化に貢献・・・との意識は強かったが、普通のサラリーマン編集者に変わっていった。そして丸5年後、「農業のアキレス腱の生鮮品等の流通問題に切り込むため」に脱サラを選んだ。「家の光」の発行部数180万の最高部数の年であった。
 

家の光時代の途中で職場結婚した。仲人は一人が近藤頼巳教授、もう一人は桜井さんという家の光編集局主幹であった。妻が一時期お茶くみをしていて、可愛がってくれた人だ。男2人という珍しい仲人の組み合わせだった。桜井さんは、定年退職後に「生活文化社」という出版社を立ち上げ、家の光の姉妹建物のなかで宮沢賢治の「雨にも負けず」が書かれた復刻手帳を出版された。他にも賢治の復刻手帳はあるが、これが最初のものである。桜井さんはコウゾ・ミツマタで使った本格的な和紙の箱も用意し、これに賢治が持ち歩いた手帳を詰めたが、手帳は表紙も含め忠実に手触りまで再現・・・といった凝りようであった。

   
桜井さんは読書家で、古書の収集家でもあった。荻窪の古本屋にもしばしば来られた。私が独立し3年目くらいであったが、「荻窪に来たついで」といってブラリと訪ねてくださった。そして「仕事がまだ軌道にのってないなら、しばらく復刻手帳を手伝ってくれ」と助け舟を出してくれた。私はすぐに応じ1年半ほど手伝った。2人して復刻手帳1冊ごとに朱の細筆で番号を書き、毎日10冊、20冊と配給元の東販、日販に届けに行ったものだ。あっと言う間に完売した。家の光時代に原稿でお世話になった一流の新聞・週刊誌記者全員に、書評を書いてもらったおかげである。この間に中小企業診断士というコンサルタントの資格を取得し、以後の人生を決定づけた。
 

9.単身生活者が急増した感じの天沼

   最後に、改めて荻窪の商業事情についても触れておくと(これが本来の専門分野)、商業集積の3/4は駅北口の中央線と青梅街道に挟まれた三角地区に集中していた。北口側に戦後100店近いバラックとも言える専門商店街が誕生。経済の発展とともに西友ができ、一時道路を隔て東急ストアもあった。バラック商店街はやがて多層の商業ビルになり、地下には東信水産、魚力といった2大鮮魚店が覇を競い魅力の核となった。東信水産については、まだバラック時に1時1階の売り場からエアーシューターで、2階にお札を吸い上げるほど繁盛。コンサルタントとしてエアーシューターについて興味を持ち、2階に集められるお札の山を見せてもらったことがある。ビル外側の商店街には丸大青果、河内屋といった強力青果店もあり、荻窪は生鮮の魅力が特に高い地域を形成していた。かなり後になりルミネも出来た。だが荻窪を離れすでに30年以上になり、数年に1度は荻窪を車で通るが、いまの状況はよく把握していない。

 ごく最近、高校のクラス会が荻窪の某レストランで行われ、久しぶりに45分ほど荻窪の露地を歩いた。チェーン店の飲食店ばかりがものすごくふえたのにびっくりした。教会通りの奥に沢山のマンションがあるのか、この通りにニュー業態の店が沢山でき、八百屋さんは「最寄りの魚屋や肉やは一軒もなくなった」と仲間不足を嘆いていた。外食依存の単身者が急増したのではないか。

同じ中央線沿線でも高円寺、阿佐ヶ谷、西荻は高架の駅で、南北の道路が駅横に通っていた。ために線路の北側、南側をともに商圏に出来、南北をつなぐ商店街が発達。駅エリア全体を巻き込んだ夏祭りの「阿波踊り」「七夕祭り」「盆踊り大会」といった有名行事が行われている。荻窪はこの南北をつなぐ直線道路がなく、地元神社のささやかな夏祭りを経験したにすぎない。いま東西の線路を南北の道路が横切らない西武池袋線某駅の沿線族であり、改めて荻窪駅エリアに大イベントがないこととの共通性を感じている次第だ。

 なお49年住んだ想い出の荻窪から離れることになったのは、3男(当時は長男)が56才という若さで亡くなり、家の所有名義が義姉に移り、木造家屋の古さもあって売る必要が生じたからである。その後、新築戸建てや分譲団地の家を求め花小金井市ー千葉の佐倉市ー埼玉の所沢市ーいまの入間市の分譲団地・・・と流転の旅が続いた。だが合わせて30余年。天沼の約50年には及ばない。


1部 杉並区天沼物語ー野際陽子さんも住んだ土地 昭和11年~33年

2部 セリ取引の乱高下に泣く 昭和30年代後半

3部 日本のラルフネーダー竹内直一氏と出会う 昭和40年

4部 初めアメリカ流通視察で得たもの  昭和43年 

5部 青果店近代化とチェーンの実務 昭和45年から

これ以降は未稿



 

 

 

2017年5月27日土曜日

アメリカの流通視察で得たもの(昭和43年)

農産物流通の昭和後半史と私-④彼我の差は大

1.折り目正しい日系一世 
    アメリカの流通視察は計4回。昭和43年~62年の間に集中し、かつ西海岸ばかりと偏っている。また、第1回は2週間で、他はいずれも1週間。このため最も古い43年の視察が印象的で、かつ内容も充実していた。夏休み時期の旅だった。すでに触れたが、(株)農経新聞の主催で青果の荷受会社、仲卸、小売商のメンバーにコーディネーター役の私を加え38人の大集団。西海岸の北端(日本の北海道の緯度)のシアトルをスタートし、サンフランシスコ、ロスとバスで縦断した。農経新聞主幹の松浦恵先生(元・産経新聞記者ー故人)が同行せず、駆け出しコンサルタントの私を引き立ててくれるための企画と言える。なにせ、英語がまったくしゃべれず、引率経験もなかった次第である。だが、美人で経験も豊かなガイド兼通訳2人が助けてくれ、さして不便はなかった。

 目的は農業と農産物流通視察。したがって野菜やレモンの農場を3件ほど訪ね、あとはスーパーやファーマーズマーケット等やサンキスト・レモンの選別工場、キコーマンの現地工場、サティスファイド・グローサーズサーズ(アメリカ最大のボランタリーチェーン)や当時あったセーフウエーの集配センター等の視察・・・といった内容である。アメリカで成功している日系人のレタス農場、同スーパーマーケットの訪問を含む。個人としては友人と2人で、日系人の一般家庭(植木職人)も訪問した。

 カナダのバス会社の貸し切りだったが、空港からシアトル市内に向かう途中セブン・イレブンが目に付いたので急遽バスをとめ見学。青果店のメンバーが5人ほどいたので青果の話になるが、8尺のオープンケースに鮮度の悪い野菜・果物が20品ほどあるだけ。「これじゃー売れないな」と皆が直感した。帰国してしばらくしてからセブン1号店が出来て生鮮皆無を見て、「これが正解だな」とこの時のことをすぐ思い浮かべた。後、日本のセブンがアメリカのセブンを飲みこんだのも、着眼点(便利性優先ー生鮮は主婦の商品)や勤勉さ(アメリカー2流の従業者でよしとする雇用)という経営力の違いだったと言える。

 シアトルから南下するとカナダに向け北上するキャンピングカーに次々出会う。サンフランスシスコの海辺に出ると南下してきた人は時に毛皮のコートを付け、北上してきた人はポロシャツや肌もあらわなワンピース姿。このアン・バランスが面白い。沖合では寒流と暖流がせめぎ合っているとのこと。

 アメリカ西海岸の特徴は、沿岸部に限れば日本のような「歴史的重みのある観光地」が全くないことだ。バスで途中下車して見た観光地らしきものは人工のダムと宿泊に利用したサンタ―バーバラの海岸リゾートのみである。観光の中心はもっぱらシアトル、サンフランシスコ、ロスという都市そのものだ。公園の広さや、その中に必ず日本庭園があった。他の国の庭園もあると思われたが、やはり日本庭園の異質の美が称賛されている証だと思った。

一番注目に値したのは、経済的に成功した日系一世。何人かに会ったが、折り目正しいジェントルマンばかり。戦時中収容所に隔離された嫌な思い出を背負いながらも、戦後アメリカ社会に溶け込み勤勉に誇りを持って働いてきた気概がひしひしと伝わってきた。ちょうど繊維摩擦(昭和30~45年の長期)が勃発していたときだ。ジョンソンマーケットの稲富会長さんからは「日本に帰えたら、戦後ララ物資などで食糧危機を救ってくれたのだ。皆さんにアメリカと仲良くするよう伝えてください」と言われたものだ。

   日系人の渡辺さんという一般家庭も2人だけで訪ねたが、植木職人さん。器用さのため庭の手入れ一切を請け負う様子で、収入も多く貸家も一軒持っていた。自宅は木造建てだが、リノルーム状のものを敷き詰め、何処までも土足で行けた。広い卓球場まで持ち家族で楽しむ。「アメリカ暮らしをしたいな」の誘惑にかられたものだ。

2.レタス農場にはバキューム・クリーング
 シアトル郊外で訪問した日系人農場の経営者は女性だった。何も思い出せないが「ミシン」「ミシン」という言葉にとまどった。農機具のことだ。ミシンは機械のことで、マシンが変形してミシンとなったが、ここでは農機具がなまってミシンと発音されていたようだった。農場の機械化については、農薬や肥料の散布など部分請負の業者がいて、これに負かせて生産性を上げていることも知った。日本でも機械投資が加重という問題がある。今後「部分請負い」の形が進んでよいと思った。

 カリフォルニアのサリナス地区は、ジェムス・ディーンの映画「エデンの東」の舞台…東海岸まで、一攫千金を目指しキャベツ?を氷を使い冷蔵輸送する。途中で氷が解け、夢ははかなく消えた。日系のレタスキングの1人に入る方(名を忘れてしまった)の農場を訪ねた。たしかレタスだけで2,400エーカー(600ha)と聞いた。見渡す限りレタス畑。働いているのはほとんどがメキシカン。玉を壊さないよう手で収穫していた。

ディーンの2の舞にならないよう、畑の1ケ所に長さ100mもあろうトンネル状のものがあった。レタスをトロッコに乗せ、レールで奥まで押し込み、入り口を完全封鎖。そして空気を抜き取り冷却するマシンである。言葉では知っていたバキュークーリングム(真空冷却装置)だったが、日本では常温輸送が普通の時代。感動したものだ。

このレタスキングさん・・・夕方に兄弟、子、孫まで含めて10人以上を集め、私ども38人の歓迎の宴を開いてくれた。地元一の豪華なレストランである。3世のお孫さんは、日本語を皆目話せない。これを訪問客の間に挟み込んだから、少々困惑気味だった。英語を話せない我々も同様だった。休みの日には、自家用飛行機でサンフランシスコの映画他を見に行くそうだ。それだけ地元に娯楽施設がないことを物語る。盛大な宴会もまた家族の娯楽の一つだったはず。視察者全員が感謝感激したのは云うまでもない。

カリフォルニアのサンキスト・レモン工場の近くのレモン農場・・・1本の木につぼみ、花、青い実、熟れた黄色の実がついていた。常春か常夏の気候がなせるわざわざ。雨量が少なく、ローッキード山脈から水を引き、スプリンクラーで散水する方法が主流で、これは西海岸の農場すべてに通じる。サンキストの工場・・・1粒1粒に「サンキスト」の刻印がフルスピードで打たれい。壮観だった。この時代、この刻印で世界にブランド力を誇っていた。

サンフランシスコやロスでは、青果市場にも出向いたが、日本に比べはるかに小規模で、日本の仲卸に相当する店が主体。スーパーの青果の一部を供給するにすぎず、スーパーの扱い額のほとんどは、規模の大きい農場との直接取引。スーパーの集配センターに集荷され、不良部分を削り店に供給。セーフウエーの集配センターにはカットした痛み部分のバナナが山と積み上げられていた。思わず試食し「恥ずかしい真似はするな」と荷受会社の仲間から注意を受けてしまった。

3.西海岸は特有の裸陳列―パック品なし
アメリカ東海岸は青果のパック売りが中心で、当時の西海岸のスーパーは裸陳列全盛と聞いていた。事実キュウリ、トマト、大きな莢のエンドウやインゲン、葉物、ニンジンなど、総て同じ方向に向けてバラ陳列されていた。また赤いニンジン、その横がキュウリ、さらに横がトマトといった具合に、カラーコントロールの技法を採用し実に美しかった。この美しい陳列を生み出したのは、ロスの高級スーパーであるゲルソンマーケット。器用な日系人従業員が編み出した陳列法と聞いた。事実、ゲルソンの青果陳列がピカイチだった。ドライ食品、菓子、雑貨の陳列も、日本と違い縦の面に凹みのない美しさに驚いた。人件費が高いが、夜間とかに専門のバイトが陳列作業をするとのこと。だから美しく早く陳列でき、人件費もかからないですむようだった。「アメリカ人はおおざっぱ」という見方は、こと陳列には当たっていない。

観光地と化したファーマーズマーケットは、これまたどこもカラフルな裸陳列。すぐ30店、50店もが軒を並べ、観光客を集めてにぎわっていた。屋台の集合体的な陣形だった。あっちこっちと見て回る楽しさがあった。

ロスでは、稲富さんのジョンソンマーケットに車で走ったが、大通りの交差点に向かい合ってスーパーがある場合が多かった。車社会とはいえ比較購買のしゃすい戦略をとっているように思えた。稲富さんの自宅はロスの郊外。店舗で夫婦で出迎えてくれ、ラスベガスに行かない5~6人と伺った。となりはゴルフ場で垣根なしの芝生でつながっていた。庭には訪問して歓待された日本人だお礼の品で送った灯篭ほかの石細工等がいくつも並んでいた。経営は息子さんに任せ悠々自適の生活ぶり。息子さんはボランタリー・チェーンのサティスファイド・グロサリーの理事も務めていられ指導的役割にあった。そして中堅スーパー5店ほどを経営していた。勤勉さのため信用され、アメリカ人から出資を受け、チェーンを形成してきたとのこと。

 キッコーマン醤油の現地工場では、配送センターの機械による配送地区別、得意先別の仕分けにビックリした。日本ではまだそこまで行ってなかった時代だ。サーティスファイド・グロサーズの集配センターではさらにびっくり。床にレールの上を爪が一緒に流れ、これで荷物を積んだ台車をひっかけ、思い通りに位置に次々と運んでいた。外に並ぶ配送トラックの大きさも、日本で見たことのないもの。道路の整備があって初めて運行可能になるジャンボさだった。

 いまのアメリカにはマンモス的な悲劇が随所に見られるが、当時はこと物流システム化については、日本の2倍、3倍も先を行っていた。そして大農場とスーパーの直送も進んでいた。借地農業であれ、日本での農業の大規模化が進まないかぎり、アメリカ型の農産物流通にはなりにくいことも事実である。肉や魚の流通・販売については、よく知る機会がなく、報告ができないのが残念であった。

2017年5月25日木曜日

青果店近代化とミニチェーンの実践(昭和40年代)

 農産物流通の昭和後半史と私-③ボランタリー化

1.「天皇」と呼ばれた大澤常太郎氏(青果小売商組合)

 昭和40年代はスーパーが急成長した時代だが、まだまだ八百屋、果物屋、肉屋、魚屋など、食品関係の小売業が伸びている時代だった。東京のどこの商店街に行っても、八百屋、肉屋、魚屋、総菜屋というものが各2~4店くらいはあった。

 神田市場にも足しげく通った。今は大田市場が東京の中央卸売市場の中心だが、移転前は神田が青果物の中心であり、各種の業界紙もたくさん出入りし、青果卸売商、仲卸商、小売商等の東京支部、全国連合会本部も市場に近くにあった。特にお世話になったのは東京青果小売商組合であり、またその全国連合会であった。

東京青果小売商協には、取材かたがた訪ね、「青果の流通に詳しいなら、講師に加わってくれないか」と、事務局長が専務や会長にも紹介してくれた。そして独立した年から3年ほど夜間の「経営近代化講座」を担当した。農水省の助成を受けていたかは分からない。神田、新宿、豊島、荏原、足立の5市場で実施され無料講座だった。各会場40~50名が集まり、午後6~8時という店の後かたずけの忙しい時間帯に実施されたが、欠席者もない熱気あふれたものだった。

1年目こそ演題は「青果の生産・流通」だったが、2・3年目からは参加者の優良店を回り、撮った写真をスライド化し、販売中心の話にした。これが受け、テープレコーダーを持ち込み、声のみを熱心に録音するものが多数いたようだ(後日談)。当時の青果商の皆さんは、いかに安く、上手に仕入れるかをセリ現場で競っていたようだ。築地市場で5人の青果店に集まってもらい座談会を持ったことがある。全員が「自分が一番上手に安く仕入れている」との発言に戸惑ったものだ。販売となると、他店を見て回る暇がなく、比較できないためか「俺が一番」との声は出なかった。しかし多くの青果店が「スーパーより新鮮なものを安く売っている」と自信を持っていた時代だ。

青果店のエリートは講演が終わってからも、残って話しかけてくる。こうした人の店を回り、その良さを写真で撮りまくった。たとえば、品川区の大井町にあったAさんは、スーパーですら裸売りや、ポリ袋入りで売っていた時代に、座った姿勢でポリプロピレンを四角に切り、ナスやキュウリ他をトレイを使わず上手にラップし、セロテープで止め販売していた。鮮度が保たれ、かつ見た目も実に美しかった。新宿区の飯田橋かいわいにあったBさんは、無料で配布される産地のポスターをため込み、店内の2つの通路の天井に画びょうで止め、入り口から奥へと計20枚以上も展示し、にぎやかさを演出し、箱の中のトマトなどを列売りもしていた。中野区のCさんは、残った葉物をヒヤリとする床に並べ、鮮度保持を図っていた…数々の優良事例を紹介することで高い評価を受けた。それだけでなく、私も会員の一人として会費を払い「青果店近代化研究会」を結成した。35人ほどの会であったが、毎月20人前後で意見を交換、時に店舗見学も行った。

当時の青果小売業界には「天皇」と呼ばる人がいた。大澤常太郎氏だ。氏は「市場で投機的な高値が出たときはストライキも辞さず」と青果小売組合を大正7年に結成した初代の小売組合長である。そして東京だけでなく、全国青果小売商組合連合会の会長でもあった。職員を引き連れ農水省の中を闊歩するほど。見識もあり態度も実にジェントルマンで、尊敬を一身に集めていた。旧東京市の市会議員もやり,「何苦礎(なにくそ)一代」他3冊の著書もある。

大澤会長は私の名前を憶えていなかったようだが、時に話しかけてくれた。アメリカのロスアンゼルスでスーパー・チェーンを経営する稲富さん(ジョンソンマーケット会長―すでに故人)が日本に来て大澤会長に会う際、「君、あした品川のプリンスホテルに稲富夫婦を迎えに行ってくれ」と特別な任務をおおせつかり、光栄に思ったことがある。稲富さんとはこれが縁で、4回のアメリカ視察のたびに、ラスベガスに行かない視察者5~6人を連れてロスの自宅を訪ねさせてもらった。

神田に事務所を構える全国青果卸売会社協会の関谷尚一会長(当時、神田の東一社長)、全国青果卸売(仲卸)組合連合会の江澤任三郎会長といったドンもいた。それだけ、青果市場は今の数倍も栄えていた証と言える。関谷尚一会長には取材で3度ほど会っていたが、やはり見識を持つジェントルマン。亡くなられた際は、杉並区堀ノ内のオソッサマ(妙法寺)で葬儀が行われた。葬儀の花輪は100本が奥にも3列並び、計300本はあったように思う。驚きだった。

2.公設食料品総合小売市場の失敗
 昭和40年ごろには、青果小売店に限らず零細小売店すべてが、スーパーの影響力におびえ始めていた。農水省も対策として、「食料品総合小売市場管理会社法」を農林水産委員会で検討を始めた。これは「小売業の協業化を推進し、経営の近代化を進めるため、東京にとりあえず20ケ所のモデルとなる総合小売市場をつくる」というものだ。もちろん物価対策の側面も大いにあった。スーパーに関係する複数の小売業種から希望者を募り、選抜し、共同の会社を設立、生産性を上げるためレジを置きスーパー化して運営するもの。

 農林水産委員会では「少数の者しか参加できず、近隣の小売商にとって逆に悪影響が出る。青果小売商組などは青果信用組合を通じ店舗改善融資も行って、独自に近代化の努力をしているので反対」(前記・大澤会長)とした。東京の青果小売商組は信用組合を持つだけでなく、総合化を目指し加工品他販売資材の共同購入も推進していた。逆に鮮魚小売商組は「近代化の一助になる」と賛成した。

 実際に施策が推進されたのは昭和42年ころだと記憶している。私も都内某所の公設市場のアドバイスを担当した。生鮮3品+乾物店といたもので済めばまだしも、薬局や文具店まで参入し、株式会社として一体運営する。ところがスーパーの運営にまったく知識のない文具店の代表が社長の座を求めたため、つかみ合いの深刻な対立が起きた。

 関西地方では、大正時代から物価対策のため公設小売市場が多数作られ、各業種がそれぞれのパートを分担した寄合形式で運営し成果をあげてきた。だが新規の施策は、寄合市場でなく、「経営統合した小型スーパー」だ。共同経営もスーパーの経験もない零細小売店が、いっきにそこに行くには無理があった。これまで自力で所得をあげていたものが、月給取りになる・・・との抵抗もあったはず。また指導をするコンサルタントも育っていない時代である(私はこの2年後くらいになって、はじめて陳列や販促のミニ・スーパーの実務指導の経験を積んだのだが)。

大方の事例ではスーパー化にともなう労務管理、仕入れ管理、販売管理、財務管理といったマネージメントが適正にできず、2~3年で破たんに追い込まれた。店舗名は残っていても内実は共同経営者のうちの1人が引き継ぎ、再建するといった姿だった。農水省案は完敗したのである。

3.ボランタリー時代が来ていた
昭和30年代後半や40年代は、専門店が総合化、セルフ化していくため、共同購入を中心に同志的結合するボランタリーチェーンの発展期であった。もちろん急成長をとげるチェーン・スーパーに対抗していくためである。

小型スーパーを主に結集した食品ボランタリーの全日食チェーンやセルコが誕生したのが、共に昭和37年である。そして日本ボランタリーチェーン協会が結成されたのが昭和41年である。複数店舗を要する中堅スーパーマーケットが結集したCGCジャパンが結成されたのはやや遅れ、昭和48年であった。

私は先記の「青果店近代化研究会」を2年ほど続けてきたが、青果専門店として発展していくには「やはり青果専門店では無理」と考えた。いくら鮮度が良く、仕入れ上手で安く売れたとしても、店に入ったら何か買わないと帰れない」といった圧迫が働く。総合化、セルフ化し、自由に出入りできるようにし、買いやすさを付与する・・・こうしないと、スーパーに馴れた消費者にそっぽを向かれる。セルフにすれば、店主が市場から帰るのが遅くとも、奥さんの力で午前9~10時に店を開けることも可能になり、前日の残りの青果と加工食品、菓子、雑貨などを買ってもらうことができる(身近な近隣の店として)。発想とすれば、コンビニに近いものであった。

43年に最初のアメリカ西海岸2週間の視察旅行をした。青果卸、仲卸、小売商38人ほどの視察団で、初日に北端のシアトルでセブン・イレブンも見学した。平冷ケースにスカスカに青果15品ほどが並び、鮮度も極端に悪く腐れ品もあったほど。「これでは手本にならない」と、青果店の仲間と話したほどひどかった。後に日本のコンビニのどのチェーンも、生鮮を避けてスタートしたのは正解であった。向こうは退役軍人や日系2世など、どちらかと言えば、小売に精通していない層がフランチャイジーになり、小売のノウハフに精通していない。かつ勤勉度も日本に劣る。こうした欠点が出ていた。

「日本の青果店は勤勉だし、やる気もある」と、総合化・セルフ化に力点を置いた「みどりチェーンの店」という名の組織を発足させた。昭和45年のことである。セブン・イレブン1号店が登場するのが48年で、その3年前である。都内5市場の小売商の青年部長クラス3人を含む最終11店のミニ・チェーンである。加工食品の仕入れ元は、全日食から分かれたメルシーチェーンの了解のもと、その某店から仕入れさせてもらった。私の友人が精肉コーナーとして入っていて、前からお付き合いのあった店だ。友人の業績が悪く撤退し、従業員が1人宙に浮き、この従業員を午後から助手として雇い、11店へ配送をしてもらった。

問題が一つあった。当時の青果商組は関連品の共同購入を推進していたため、これとバッティングするため、組合のエリートが参加していたものの、青果小売商組との関係を断つはめになった。

4.11店舗のミニ・チェーン推進&阿部幸雄氏
運営形態とすれば、私の主催するフランチャイズだが、月1回の例会などでノウハフの交流をするボランタリーもどきでもある。会員店の売り場規模は7坪から最大で30坪。後に誕生したコンビニは30坪が標準であり、平均からするとかなり狭い。出資金10万円円、会費月1万円、商品供給手数料3%、商品供給はドライ食品は本部配送、日配水物や菓子、雑貨は問屋委託。本部の支援は店舗設計・施行、主にドライ食品の品揃え、売価設、陳列、販促の実務支援。

やはり急ごしらえの感は否めず、マニュアルといったものが全くなく、助手の現場経験から売価を設定したが、参考売価も決められておらず、プライスカードも完全に添付されてなかった。このため日が経つにつれ、売価も徐々に変わってしまったのではと想像する。週1回は特売日を設け、手書きチラシを月1回近隣に1000枚撒き、これに合わせアルバイト運転手を使い宣伝カーを杉並区、新宿区、大田区、足立区と私の声で流して回る。この熱意に惚れて、「先生。先生」と呼ばれながら、チェーンを運営した。実態はフランチャイズに程遠く、かつ特売主導で売り上げを拡大しようとした面で、「便利さを売るコンビニ」とも大きく乖離していた。

44年に中小企業診断士の資格も取った。雑誌での評論、講演中心の評論家的なコンサルタントから、実務にも通じ経営分析もできるコンサルタントに脱皮する「1里塚」と言える体験をしたことになる。いま考えると、ロイアリティ―も少ないが、システム作りができておらず、与えるものも中途半端で、会員店の皆さんに申し訳ないことをしたと思っている。

 ところで、多くの人はセブン・イレブン誕生がコンビニのスタートと思っているはず。実際は雪印乳業の研修所長であった阿部幸雄氏が、アイスで通じる面があったアメリカのサウスランド社(セブン・イレブンの主催企業で、アイスの販売からスタートし、1946年=昭和21年に7-11をスタート)をたびたび訪ね、ノウハフを日本に紹介したのだ。昭和46年にまず「発展するコンビニエンスストア アメリカ食品流通のルキー」を、翌47年には「日本で伸びるコンビニエンスストア」の著書を出している。後者では28ページにわたり「実例」として、「みどりチェーンの実践」が紹介された。

私と阿部氏の出会いは、友人診断士の江連立雄氏の仲介による。2冊目の編纂に当たり「みどりチェーンはコンビと本質的に異なるが、小型店の総合化例の数字的資料がないので概略を書いてくれ」と頼まれ、確か28ページ分ほどにわたり会員店の売場面積、客数、客単価、売上高、その各伸び率、運営内容の詳細情報が載っている。渡米前に私の原稿を渡し、阿部先生が旅先のアメリカのホテルで手を加えたものだ。コンビニあらざるもの・・・との評価をいただいたが、青果の強さがマグネットになり、どの店も1.5倍も売上高が伸び、売場効率は抜群に高かった。貴重な1冊を人に貸し返却されず、細かい報告ができないが、最も大きい30坪のばあい、すでに総合化していてノウハフがあったこともあるが、日商170~180万円を実現していた。

2017年4月1日土曜日

日本のラルフネーダー竹内直一氏と出会う(昭和40年)!

農産物流通の昭和後半史と私-②相対取引の提言

1.退社理由は単純ではない
 安定したサラリーマン(JA系「家の光協会」編集部)を辞めたのは昭和40年4月1日。2月5日ごろに、地区ごとに区分されていた「東北版」の農業取材のため、仙台に赴任せよ・・・の内示を受けた。これを拒否し「辞めたい」と会社に伝えたのは3月10日ごろだった。編集次長と東北のJA関係団体に挨拶に行く日だ。途中、編集局理事の家に辞表を届け、上野駅まで行ったものの「このまま挨拶に行けば引き返しがきかない」と思い、次長に告げず駅近くのホテルに泊まり、翌日は本社にも出向かず無断欠勤した。

   退社理由は、で述べた「農産物流通問題かぶれになったから」という単純ものではない。私は兄2人、姉1人兄弟の4番目だったが、末っ子として母と唯一生活し、この年老いた母を1人東京に残せない(母は気丈夫に東北に行けといってくれていたが)昭和39年に当時の12チャンネルの編集枠が「家の光協会」にも割り振られ、「新規のテレビの仕事をやりたい」と思ったが、担当枠2人の中にはいれなかった・・・こうしたことも理由であった。

まだ入社6年目の駆け出しの農業記者に、他社から声が掛かるはずもない。 3月20日ごろには独立時に配るべき「農業革命への提言」(A4の12ページ、上下段組。単行本にすれば48ページほどにすぎない)の原稿を、タイプ印刷会社を神田でやっていた従姉に渡し、印刷をしてもらった。無料の押し付け作業である。 この従姉と家の光時代に原稿を書いてもらった元産経新聞記者の松浦恵氏には一生涯頭が上がらない。松浦氏は昭和41年に独立し、「農経新聞」主幹になった。そして畜産の新聞を青果の新聞に変え、海外視察団を何十回も送り出す辣腕家だった。2~3年にわたり嘱託や正規の記者として働かしてくれた。またその後の4~8年間のなかでアメリカ視察2度、ヨーロッパ視察1度について無償(当方が松浦氏の代理案内人)や廉価で連れていってくれたのだ。

2.農業の基本的ハンディへの挑戦
   私が書いた名刺代わりの「農業革命への提言」(S40年4月10日)は、農業記者経験6年=29才の若造とすれば、農業の基本問題の分析に立ち、よく書けていると思っている。提言のポイントは・・・

       農業は広い農地や太陽エネルギーに依存し、(イ)固定資本の回転率が悪く、(ロ)作物という流動資本も太陽エネルギーの量に影響され、回転が悪い、(ハ)お天気頼みで生産不安定、(ハ)多数の分散生産・販売で、独占的販売の進む工業に比し、有利な販売はしにくい・・・これらハンディを克服しにくく、アメリカにおいても農業への補助は厚い。
   ②    だが補助金に頼っていては高い収入は実現できない。マネージメントなき農業に、マネージメントを導入すべきである。
   ③ 農業革命と言われているが、高度成長経済という外圧が見立ち、変革の担い手が生まれていない(若い人の流失)。
   ④ 米麦農業から脱皮、稲作+アルファ(青果や畜産)を育て、農業を所得的にも魅力あるものにする。これは蛋白+ミネラル農政への転換を意味し、若い変革の担い手も生む。
   ⑤ 水田や産地での飼料作物や草の生産を拡大し、輸入飼料に頼らない畜産の振興を。
   ⑥ 農業は土地依存度が高い。規模拡大と言っても、購入方式では進まないし、コスト・アップにつながる。「闇小作料を公然化し、農地の集中を図るべき」である。
   ⑦ また今後も農業からのリタイアーが増えるので、農協や専業農家による「請負耕作」を大いに推進。これが+アルファー部門の拡大にもつながる。
   ⑧ 非独占に甘んじるのでなく、品種や立地の特性を活かし、できるだけ地区ごとに独占的な地位を築き有利性を発揮する(後の一村一品運動に通じる)。
 ⑨ 生産品をストレートに市場に出すのでなく、農協は余剰分を貯蔵・加工できる施設を持ち、いまで言う6次産業化の担い手になる。具体例として、北海道の中札内農協、静岡県の庵原農協、愛媛県の温泉郡農協、滋賀県の水口町農協等の名を紹介(その後どうなったか?)。
 ⑩ 土地の桎梏から逃れるための、土地なし&土地依存度の少ない、ハウス栽培、一腹搾り(酪農)、土地なし養鶏・養豚などの肯定する必要がある。

・・・簡単にまとめにくいが、ざっと以上のような論旨である。農業者は、消費者に「農業の本質的なハンディ」を理解してもらう一方、ハンディに埋没してしまえば支持は得られない。これは今日的な課題でもある。

 3.相対取引推進の「流通センター新聞」発行
    当時の退職金は6年勤務で、たしか27万円であった。わずかだが残っていた借金を返し、固定電話を買えば、残りは20万円。すでに娘1人がいたが貯金もなし。母が大学生の下宿人2~3人を置き(幸い荻窪の自宅は6部屋)、これに助けられ、どうにか生活ができた。経済的に見れば、実に無謀な独立であった。それでも、高度成長入口の当時にあって「脱サラ」は極めて珍しく、出版社の方が訪ねて来て、荻窪の喫茶店で取材を受けた。あとで6人ほどの脱サラ体験者の取材本が届いた。

やはり雑誌記者という体験から、流通への思いを表現したいため業界新聞を作ることにした。その名は「流通センター新聞」。肉の枝肉センターがすでに設置されていたが、セリでなく解体した枝肉を業者に相対で売るのが特徴。青果物でも、既存の卸売市場のセリ取引を否定する相対取引の施設は、「流通センター」と呼ぶに値する。相対市場を形成していくべきだ・・・との主張から「流通センター新聞」とした。無料で配布し、広告で運営することにしたが、この目論見はすぐ破たんした。突然「新聞を作るから広告をくれ」と持ち掛けても、だれも相手にしてくれない。9万円ほどがすっ飛び、1回の発行で終わってしまった。

だが、無駄にはならなかった・・・相対や産地直取引きの事例記事のほか、広告を取りたいとの期待もあって、移動販売車の記事も大々的に書いた。たまたまA会社が「移動販売車」という、冷蔵車による近代的な引き売りを開始することが評判になっていた。このA社も、新アイデアだけに厚生省などの認可にてこずっていた。

政府は物価対策もあって経済企画庁に、新たに国民生活局を設け、農林省の次官候補の1人であった中西一郎氏(退官後に参議院議員に)を据えていた。この下に、後に消費者運動に身を投じ「日本のラルフネーダー」と言われた竹内直一参事官がいた。A社の社長が局面打開のため、何度も竹内氏に会っていたようで、私の発行した「流通センター新聞」を竹内氏に見せたようだ。こんなことで竹内氏から声が掛かり会うことができ、「近藤君、局員を集めるから、君の構想をしゃべってくれないか」ということになった。まさに「地獄に仏」である。竹内氏は東大法学部政治学科卒で、農水省ー経済企画庁と官僚の道を歩みながらも、43年に退官し翌年「日本消費者連盟設立委員会」を立ち上げ、49年に同・連盟を設立し代表委員になった。私に会った時から「世のため人のために行動する稀有な官僚」だっように思う。

約束の日に伺うと中西一郎局長、竹内参事官のほかに、一般の官僚も含め、計15人ほどが集まっていた。広い部屋の一隅であった。私は日ごろ考えているままを、淡々と説明した・・・「今の中央市場にせよ地方市場にしても、中心はセリ取引。貯蔵設備もないまま、全量をセリに掛ければ、ときに相場は2倍にも3倍にもなる。乱高下が起きれば、情報の少ないまま生産を調整し、さらに次の乱高下を産む。市場取引の改革をする一方、食肉センターのように冷蔵施設も持ち、ときに一部プリパッケージも手掛けるような流通センターを設ける必要がある」「相対取引が主流になれば、小売り側と産地の安定的な直取引も可能になる」と。

 私のレクチャーが、どの程度のインパクトを与えたかは分らない。しかしJA全農は、埼玉の戸田橋に昭和43年11月に、大阪府に47年11月に、神奈川県の大和市に48年8月にそれぞれ生鮮食品センターを開設した。当時、経済企画庁国民生活局は、物価対策を始め国民生活全体の安定のため作られた部局である。全農を呼びつけ、「新たな相対中心の流通体系を作れ」とか、市場関係者に相対取引の拡大を指示したことはほぼ間違いない。そして予約相対取引は、現在では主流に育っている。セリ+入札取引の中央卸売市場での比率は年々低下し、青果物の場合平成10年には49.3%になり、25年にはなんと11.6%にまで減っている。現在は予約相対の比率が88%までに達していることになる。

 なお、プリパッケーイジについては、東京神田市場の卸である日本一の東印・東京青果がナショナル・ホールセールなる子会社を設け、プリパッケージを開始したのが昭和40年か41年ごろ。早速、取材に行ったものだ。

4.産地直送ではヨーカドーの伊藤雅俊氏にも
 独立と同時に、小売業と産地との直取引の取材も始めていた。事例はすこぶる少なく、東京の新宿などげ看板が目立つ「甲信園」とか、杉並のほうの「一実屋」など、山梨と関係ある果物屋が、山梨のモモ、ブドウなどを仕入れ・販売するケースが見立ち、野菜の直送ケースはなかった。スーパーの中堅企業「エコス」を築いた、当時青果店を5店ほどを経営する平富郎氏にもその後巡り合ったが、やはり山梨の果物の直仕入れをしていた。車で行きやすい山梨に、ブドウやモモの優良な大型産地があり、取引しやすかったのが理由だろう。「お祭りや、その他の付き合いもし、人間関係を深めねばならず、安さの実現はなかなかできない」の声が聞かれた。

牛肉については、ダイエーがまだ祖国復帰していない沖縄に、アメリカの牛を入れ、沖縄日本間が無関税の利点を生かし、沖縄から輸入する・・・という形で、廉価輸入を実現し、話題をさらっていた。私はこんな時代に雑誌・商業界に出向き、お願いし「販売革新」「商業界」に産地直取引の記事を書き始めた。当時、まだ農産物の流通に通じた人が少なく、駆け出しの私にもチャンスが与えられた。「農産物の流通=暗黒大陸を切る」といったタイトルの記事を書いたのを覚えている。

いろいろ事例が少ないなかで、直取引きの願望ばかりが先行していたのだろう。当時、イトーヨーカドーの青果部長をしていた塙昭彦さん(後に中国進出の立役者。セブン&アイ・フードシステムやデニーズジャパンの代表取締役)から「産地直取引は、まだ実践するには早すぎる」の電話をいただき「一度話に来いよ」と云われ、イトーヨーカドー本社を訪ねた。入口付近で立って待っていると、恰幅の立派な方が出てこられ、「お客さん、お待ちならあちらの椅子にお掛けください」とさりげなく通りすぎたのが、当時の伊藤雅俊社長であった。あとで塙さんから生鮮センターの開所式に招かれ際、名刺をいただき「あの時の方」と気付いた次第だ。

 日本一、収益力の高いビッグストアを育てた方だが、「さすが他人への配慮の行き届いた方」と、この時以来イトーヨーカドーのフアンであり続けた。また塙さんの「産地直送は早すぎる」の提言と一致するかのように、かなり時間軸をずらして、ヨーカドーは他チェーンを大きく引き離す「顔の見える」シリーズの青果を揃えている。物価問題から入り、「産地直送で安さが手に入る」としたが間違い。生鮮のばあい「鮮度の良さ、素性の明確化、安定供給」などの総合要素がないと成立しない・・・と気がついたのは、かなり高度成長の進んだあとである。

昭和43年くらいに、某経済連の講習会に講師として呼ばれて出向いたとき、部長さんは「産直の取引量は少なく、かつ不安定。市場への供給より手間もかかり、高く売る必要がある」と、単協関係者に舞台裏で諭していた。これが当時の現実だった。いすれにしろ、収入はほとんどないが、私にとって昭和40年は独立後の人生で、一番意義深い年であった。




2017年3月25日土曜日

セリ取引の乱高下に泣く(昭和30年代後半)

農産物流通の昭和後半史と私-①脱サラへの道


今後の予定
日本のラルフネーダー竹内直氏と出会う
アメリカの流通視察で得たもの
青果店とのお付合いとミニFCの実践
VCのミニ・スーパーと共に10年
大規模SMとコンビニの隆盛時代に

1.農産物流通問題に引かれ脱サラ
 私がJA系の社法人「家の光協会」編集部記者を辞めたのは昭和40年、29才の時である。雑誌「家の光」はこの時、月180万部と日本一の発行部数を誇った。農村エリート向けの「地上」も発行していた。家の光協会勤務はわずか6年で、うち3年が家の光編集部、2年が地上編集部、残り1年は両者兼務であった。いずれにしても「家の光」が最ピークの年に、農産物流通コンサルタントの肩書で独立した。

 編集部の最後2年間に、1年目は「畑から台所」(昭和38年度)、2年目は「流通パトロール」(39年度)と農産物流通の連載記事を担当した。自由にテーマを選び24回連載をしたことになる。野菜を中心に農産物の暴騰、暴落がくり返され、農業者だけでなく、都会の消費者もまた泣かされる日々が続き、農産物の流通がクローズアップされていた。だからこそ連載記事を書き、挙句の果て「流通かぶれ」になり独立してしまった。

 当時の農産物流通の状況を知る手がかりが残っている・・・昭和41年6月8日の51回国会・農林水産委員会の討論内容である。

 児玉(末男)委員 「行政管理庁が5月27日に出した生鮮食料品の生産および流通に関する行政監察の結果によると、昭和35年から40年にかけて、消費者物価の値上がりについては、特に生鮮食料品が激しく、中でも野菜は97%の値上がりを示している」。

「一般の消費者物価は昭和35年に比し40年は35%の値上がり、うち生鮮品は平均56%値上がり、そして野菜は約倍(97%)の値上がり」という数字あげ、輸送費中心の質問をしている。

 小林(誠)政府委員 「野菜の小売価格は5年間で96%の値上がりですが、卸価格も95%ほど値上がり。農家の手取りと言える庭先価格も昭和39年までに約90%アップ」と説明。また値上がりの原因として、「以前と違う、単価の高い端境期の出荷が増えた」「野菜は非常に人手を要するが、都市への移動で人手不足」「流通段階でも非常に人手がかかる」と説明。また「10アール当たりの投下労働時間はアメリカに比し、露地栽培でだいたい2倍、施設栽培だと3倍、4倍」と指摘。

児玉(末男)委員 「中部管区行政監察局の追跡調査についての新聞報道では、(野菜?)小売価格を100%とすると、生産者手取りは22.6%、小売マージンが32.7%(時に66.2%?)。そして、それから中間マージンが全体が77.4%になっている。生産者価格と小売価格との格差が2~5倍にもなる」と指摘。(この数値はどこかで、メモの間違いがあると思うが、小売マージンの平均32.7%(ロスを見込んだ数字)の方は、現在時点でも通じる妥当なもの)。

2.連動していた野菜と所得の上昇
  当時、暴騰・暴落の代表格が野菜であったことは、今も変わらないように思うが、その価額が5年で1.97倍であったのは、現在と比べ「相当ひどいもの」である。総務庁「家計費調査」によれば、オール野菜の平均単価は平成21年を1とした場合、丸5年後の26年は1.10倍(38.54/35.02円-100g当たり)である。現在も上昇傾向にあるものの、当時に比べれば1/10の上昇幅に過ぎない。

当時、すでに「高度成長」の言葉が使われていたものの、ほんの入口で大卒の私の初任給は昭和34年当時12,000円(国家公務員6級職10,500円)、辞めた40年で2,5000円程度と記憶している。5年換算にすれば野菜の2倍と同レベル。野菜の上昇は「所得の上昇に連動していた」(さらには生産者の手取り増にも)ということになる。逆に他の農産物の価格はサラリーマンの所得向上に追いついていなかったとも言える。

上記、委員会でも暴騰・暴落がくり返される原因について、「生鮮品は腐りやすく、産地や市場に貯蔵機能がないまま市場販売すれば乱高下を産む」「産地がバラバラに生産・出荷していて、出荷量の全体が見えない。このため出荷量が消費量とバランスせず乱高下が起きる」との指摘がされている。これを是正するため、昭和41年に「野菜生産出荷安定法」が施行され、品目別の指定産地が決められ、「指定産地は指定消費地に生産量の1/2を出荷することにより、生産補給交付金を受けることができる」ようになった。

3.セリ取引へのメスはまだだった
 ところで当時の問題点の一つは乱高下の激しさにあった。消費者は高騰に、生産者は低落に泣かされ、そのたびに新聞に大きく報道された。当時の正確な数字がないが、中央卸売市場の取引の90%以上がセリ取引であったはず。競って商品を得ようとする場合、入荷量が20%少なければ、1.5倍の値がついてもおかしくない。逆に入荷量が20%余り気味なら、競争する必要はなくセリは成立しにくく、半値に下落しても不思議でない。だがこの時の農林水産委員会では「セリが乱高下を助長するもの」といった、セリ取引中心の市場体質について触れられておらず、ここに問題が残されていた。

 そして、どちらかと言えば、「中間流通コストが高いが、どうするか」の視点が中心だった。つまり包装手段、輸送手段、産地や消費地の貯蔵施設、流通に関わる人の人件費高騰といった点だ。このため輸送については41年の委員会では、鉄道輸送が中心的に議論されたが、トッラク輸送にまだ言及されていない。貨車に乗せ、貨物駅でトラックに乗せ換えて市場に運ぶ。このため時間も手間もかかり、鮮度も低下。迅速な市場相場への対応も困難・・・という不合理性にもセリ取引同様に、気付いていなかったように思う。また、中間流通のコストカットや高鮮度確保のための「産地直取引」という概念についても、まったく言及されていなかった。

鉄道輸送中心の議論は、当時まだ高速道路が全く開通していなかったことと関係する。高速道路が確立すれば畑から市場への直送体制ができる。昭和31年「ワトキンス」という調査団が来て、「工業国でありながら、日本は道路網の完備をまったく無視している」とし、高速道路公団が同31年に発足、実際に初の高速である名神高速道路(75km)が開通したのが昭和38年である。

4.興味は都市のスーパーや消費動向
   私は消費地の東京神田の生まれながら、農工大学農学部卒である。生産から消費を同時に体験できる立場にあった。このため「暴騰・暴落に泣く生産者と消費者」の現実に、興味を持って当然である。2つの連載を通じ、群馬県のキャベツの大産地「嬬恋村」や、当時すで6次産業化を達成していたポンジュースの愛媛青果連、北海道の中札内農協、静岡の庵原農協などを訪ねた。生鮮品の場合、加工というクッションがないと、全量出荷し価格の乱高下を招くと考えたからだ。また食肉については、相対取引の新潟県内の枝肉センターを訪ねた。セリ万能時代に新風を吹き込むと見たからである。

だが興味は都市部の動きだった。当時すでにダイエー、ヨーカドー、ジャスコ、ユニーなどのビッグ・ストアのチェーンが全国展開し、関東では西友ストア、東急、京王、小田急、東武など電鉄系のスーパーが多店舗展開。私は農業記者の立場で、東急ストア本部や「いなげや」、当時あった「しずおかや」、高級スーパーの青山の「紀ノ国屋」、対面販売だが、強力な生鮮の販売力を誇る四谷3丁目の「丸正本店」などの本部を訪ね、主に青果の担当者に会い、仕入れや販売の実態を農家の人に知らしめるために報道した。消費者について理解を深めるため、消費科学連合会の三巻秋子氏との面談記事も書いた。

当時の消費実態はどうか。独立時の昭和40年4月に名刺代わりに「農業革命への提言」なる小冊子を配った。冊子では、「先進国では澱粉系(麦、米等)、蛋白系(肉、牛乳。乳製品、鶏卵等)、ビタミン系(野菜、果物)の食品が1対1対1の割合で消費されいるが、日本は澱粉系52.0%、蛋白系19.5%、ビタミン系17.5%、その他11.0%で3対1対1に近い。例えば蛋白系の肉の年間消費量は1人9kg(昭和39年)に対し、西ドイツは約7倍の61kg、イギリス約8.5倍の90Kg、鶏卵も2倍近い水準。ビタミン系の野菜は日本の場合、1人年97kgの消費で先進のトップグルーに近く、アメリカは96kgだった。果物は30kgでアメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスの約2/3」としている。ただし野菜はダイコン、ハクサイなどの澱粉系が多く、ビタミン系の消費急増もあって、価格が急騰したように見られる。鶏卵はこの時期すでに大規模化が進み、「物価の優等生」と言われ続けてきた。

   小冊子では、「蛋白・ビタミン農政に転換することが、物価問題の解決につながる。それには米麦中心の米価審議会を止め、農業総合構造・物価審議会に換え、需給バランスを政治的に作り直すべきだ」と提言している。大海に投げた一石に過ぎず効力なし。米麦中心農政は今日まで続いてきたといえる。

   時代は飛んで、最近(平成29年3月28日)になり、JA全農は事業計画の基礎になる改革方針を発表した。これによれば、農産物を小売りに直接販売する方式について、
①米の直売比率は全量の4割だが、これを平成36年までに9割にする。
②野菜や果物は現在直売比率3割を36年に5割強にする。
・・・生協の共同購入が進んだり、農産物直売所が登場したりで、消費地ー産地直結の取引も、上記のように米で4割、野菜・果物で3割と伸びてきたのだが、昭和40年時点では、これらはゼロに近かったのである。

2017年2月21日火曜日

新田次郎さんと福井県の三方五湖他の旅

1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの
  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月三日

「黒き衣」とは、2日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。

 下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。

2017年1月17日火曜日

昔の小売りの匠が今はコンスターチ粘土の匠に!

    皆さん、コンスターチ粘土を知っていますか?トウモロコシ粉を原料にした粘土で、子供さんが仮に口に入れても無害。その上、指先の暖かさで自由に伸ばせ、色も2色以上を混ぜ合わせて自由に出せる(市販のものは9色セット)。もちろん自分でも粘土を作ることができる(ネットに作り方が多数掲載)。良く伸び、光沢や透明感もあるため、花弁や葉なども自由に作れ、生け花代わりのゴージャスな花を作るのに特に適しているように思う。
 50~40年前にお付き合いしていたスーパーの店主の羽鳥安司さん(男性)という方に最近久しぶりに会った。すでに小売店経営から離れてかなり経つようだが、現在は山梨県の山中湖に本拠地を置き、コンスターチ粘土で実物以上に美しい生け花や盆栽、干支などの置物を創る先生をしている。会った際に2017年の干支の鳥の作品ももらった。
    写真のように、本物そっくりで「ビューティフル」「ワンダフル」と言える作品がどっさりあり、お花の大先生にも匹敵する技量の持ち主。かつて東京の千駄ヶ谷で30坪(現在のコンビニの大きさに匹敵。コンビニは1店平均50万円ほど)しかない店で1日180万円も売った小売りの匠だ。この匠的な研究熱心さがコンスターチ粘土の世界でも発揮され、多くのお弟子さんが集まっている。
    山中湖はもちろん東京でも講座を持っているくらい評判がよく、仏子でも希望者がいれば講座を開いもらっては・・・と思うほどだ。月2回ほどの授業料は1千円ほどのボランティアのような金額。市販のコンスターチ粘土は特許製品のようで、材料費が比較的かかる様子。
 (写真にはお弟子さん分も含む)