2017年5月27日土曜日

アメリカの流通視察で得たもの(昭和43年)

農産物流通の昭和後半史と私-④彼我の差は大

1.折り目正しい日系一世 
    アメリカの流通視察は計4回。昭和43年~62年の間に集中し、かつ西海岸ばかりと偏っている。また、第1回は2週間で、他はいずれも1週間。このため最も古い43年の視察が印象的で、かつ内容も充実していた。夏休み時期の旅だった。すでに触れたが、(株)農経新聞の主催で青果の荷受会社、仲卸、小売商のメンバーにコーディネーター役の私を加え38人の大集団。西海岸の北端(日本の北海道の緯度)のシアトルをスタートし、サンフランシスコ、ロスとバスで縦断した。農経新聞主幹の松浦恵先生(元・産経新聞記者ー故人)が同行せず、駆け出しコンサルタントの私を引き立ててくれるための企画と言える。なにせ、英語がまったくしゃべれず、引率経験もなかった次第である。だが、美人で経験も豊かなガイド兼通訳2人が助けてくれ、さして不便はなかった。

 目的は農業と農産物流通視察。したがって野菜やレモンの農場を3件ほど訪ね、あとはスーパーやファーマーズマーケット等やサンキスト・レモンの選別工場、キコーマンの現地工場、サティスファイド・グローサーズサーズ(アメリカ最大のボランタリーチェーン)や当時あったセーフウエーの集配センター等の視察・・・といった内容である。アメリカで成功している日系人のレタス農場、同スーパーマーケットの訪問を含む。個人としては友人と2人で、日系人の一般家庭(植木職人)も訪問した。

 カナダのバス会社の貸し切りだったが、空港からシアトル市内に向かう途中セブン・イレブンが目に付いたので急遽バスをとめ見学。青果店のメンバーが5人ほどいたので青果の話になるが、8尺のオープンケースに鮮度の悪い野菜・果物が20品ほどあるだけ。「これじゃー売れないな」と皆が直感した。帰国してしばらくしてからセブン1号店が出来て生鮮皆無を見て、「これが正解だな」とこの時のことをすぐ思い浮かべた。後、日本のセブンがアメリカのセブンを飲みこんだのも、着眼点(便利性優先ー生鮮は主婦の商品)や勤勉さ(アメリカー2流の従業者でよしとする雇用)という経営力の違いだったと言える。

 シアトルから南下するとカナダに向け北上するキャンピングカーに次々出会う。サンフランスシスコの海辺に出ると南下してきた人は時に毛皮のコートを付け、北上してきた人はポロシャツや肌もあらわなワンピース姿。このアン・バランスが面白い。沖合では寒流と暖流がせめぎ合っているとのこと。

 アメリカ西海岸の特徴は、沿岸部に限れば日本のような「歴史的重みのある観光地」が全くないことだ。バスで途中下車して見た観光地らしきものは人工のダムと宿泊に利用したサンタ―バーバラの海岸リゾートのみである。観光の中心はもっぱらシアトル、サンフランシスコ、ロスという都市そのものだ。公園の広さや、その中に必ず日本庭園があった。他の国の庭園もあると思われたが、やはり日本庭園の異質の美が称賛されている証だと思った。

一番注目に値したのは、経済的に成功した日系一世。何人かに会ったが、折り目正しいジェントルマンばかり。戦時中収容所に隔離された嫌な思い出を背負いながらも、戦後アメリカ社会に溶け込み勤勉に誇りを持って働いてきた気概がひしひしと伝わってきた。ちょうど繊維摩擦(昭和30~45年の長期)が勃発していたときだ。ジョンソンマーケットの稲富会長さんからは「日本に帰えたら、戦後ララ物資などで食糧危機を救ってくれたのだ。皆さんにアメリカと仲良くするよう伝えてください」と言われたものだ。

   日系人の渡辺さんという一般家庭も2人だけで訪ねたが、植木職人さん。器用さのため庭の手入れ一切を請け負う様子で、収入も多く貸家も一軒持っていた。自宅は木造建てだが、リノルーム状のものを敷き詰め、何処までも土足で行けた。広い卓球場まで持ち家族で楽しむ。「アメリカ暮らしをしたいな」の誘惑にかられたものだ。

2.レタス農場にはバキューム・クリーング
 シアトル郊外で訪問した日系人農場の経営者は女性だった。何も思い出せないが「ミシン」「ミシン」という言葉にとまどった。農機具のことだ。ミシンは機械のことで、マシンが変形してミシンとなったが、ここでは農機具がなまってミシンと発音されていたようだった。農場の機械化については、農薬や肥料の散布など部分請負の業者がいて、これに負かせて生産性を上げていることも知った。日本でも機械投資が加重という問題がある。今後「部分請負い」の形が進んでよいと思った。

 カリフォルニアのサリナス地区は、ジェムス・ディーンの映画「エデンの東」の舞台…東海岸まで、一攫千金を目指しキャベツ?を氷を使い冷蔵輸送する。途中で氷が解け、夢ははかなく消えた。日系のレタスキングの1人に入る方(名を忘れてしまった)の農場を訪ねた。たしかレタスだけで2,400エーカー(600ha)と聞いた。見渡す限りレタス畑。働いているのはほとんどがメキシカン。玉を壊さないよう手で収穫していた。

ディーンの2の舞にならないよう、畑の1ケ所に長さ100mもあろうトンネル状のものがあった。レタスをトロッコに乗せ、レールで奥まで押し込み、入り口を完全封鎖。そして空気を抜き取り冷却するマシンである。言葉では知っていたバキュークーリングム(真空冷却装置)だったが、日本では常温輸送が普通の時代。感動したものだ。

このレタスキングさん・・・夕方に兄弟、子、孫まで含めて10人以上を集め、私ども38人の歓迎の宴を開いてくれた。地元一の豪華なレストランである。3世のお孫さんは、日本語を皆目話せない。これを訪問客の間に挟み込んだから、少々困惑気味だった。英語を話せない我々も同様だった。休みの日には、自家用飛行機でサンフランシスコの映画他を見に行くそうだ。それだけ地元に娯楽施設がないことを物語る。盛大な宴会もまた家族の娯楽の一つだったはず。視察者全員が感謝感激したのは云うまでもない。

カリフォルニアのサンキスト・レモン工場の近くのレモン農場・・・1本の木につぼみ、花、青い実、熟れた黄色の実がついていた。常春か常夏の気候がなせるわざわざ。雨量が少なく、ローッキード山脈から水を引き、スプリンクラーで散水する方法が主流で、これは西海岸の農場すべてに通じる。サンキストの工場・・・1粒1粒に「サンキスト」の刻印がフルスピードで打たれい。壮観だった。この時代、この刻印で世界にブランド力を誇っていた。

サンフランシスコやロスでは、青果市場にも出向いたが、日本に比べはるかに小規模で、日本の仲卸に相当する店が主体。スーパーの青果の一部を供給するにすぎず、スーパーの扱い額のほとんどは、規模の大きい農場との直接取引。スーパーの集配センターに集荷され、不良部分を削り店に供給。セーフウエーの集配センターにはカットした痛み部分のバナナが山と積み上げられていた。思わず試食し「恥ずかしい真似はするな」と荷受会社の仲間から注意を受けてしまった。

3.西海岸は特有の裸陳列―パック品なし
アメリカ東海岸は青果のパック売りが中心で、当時の西海岸のスーパーは裸陳列全盛と聞いていた。事実キュウリ、トマト、大きな莢のエンドウやインゲン、葉物、ニンジンなど、総て同じ方向に向けてバラ陳列されていた。また赤いニンジン、その横がキュウリ、さらに横がトマトといった具合に、カラーコントロールの技法を採用し実に美しかった。この美しい陳列を生み出したのは、ロスの高級スーパーであるゲルソンマーケット。器用な日系人従業員が編み出した陳列法と聞いた。事実、ゲルソンの青果陳列がピカイチだった。ドライ食品、菓子、雑貨の陳列も、日本と違い縦の面に凹みのない美しさに驚いた。人件費が高いが、夜間とかに専門のバイトが陳列作業をするとのこと。だから美しく早く陳列でき、人件費もかからないですむようだった。「アメリカ人はおおざっぱ」という見方は、こと陳列には当たっていない。

観光地と化したファーマーズマーケットは、これまたどこもカラフルな裸陳列。すぐ30店、50店もが軒を並べ、観光客を集めてにぎわっていた。屋台の集合体的な陣形だった。あっちこっちと見て回る楽しさがあった。

ロスでは、稲富さんのジョンソンマーケットに車で走ったが、大通りの交差点に向かい合ってスーパーがある場合が多かった。車社会とはいえ比較購買のしゃすい戦略をとっているように思えた。稲富さんの自宅はロスの郊外。店舗で夫婦で出迎えてくれ、ラスベガスに行かない5~6人と伺った。となりはゴルフ場で垣根なしの芝生でつながっていた。庭には訪問して歓待された日本人だお礼の品で送った灯篭ほかの石細工等がいくつも並んでいた。経営は息子さんに任せ悠々自適の生活ぶり。息子さんはボランタリー・チェーンのサティスファイド・グロサリーの理事も務めていられ指導的役割にあった。そして中堅スーパー5店ほどを経営していた。勤勉さのため信用され、アメリカ人から出資を受け、チェーンを形成してきたとのこと。

 キッコーマン醤油の現地工場では、配送センターの機械による配送地区別、得意先別の仕分けにビックリした。日本ではまだそこまで行ってなかった時代だ。サーティスファイド・グロサーズの集配センターではさらにびっくり。床にレールの上を爪が一緒に流れ、これで荷物を積んだ台車をひっかけ、思い通りに位置に次々と運んでいた。外に並ぶ配送トラックの大きさも、日本で見たことのないもの。道路の整備があって初めて運行可能になるジャンボさだった。

 いまのアメリカにはマンモス的な悲劇が随所に見られるが、当時はこと物流システム化については、日本の2倍、3倍も先を行っていた。そして大農場とスーパーの直送も進んでいた。借地農業であれ、日本での農業の大規模化が進まないかぎり、アメリカ型の農産物流通にはなりにくいことも事実である。肉や魚の流通・販売については、よく知る機会がなく、報告ができないのが残念であった。

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