昭和40年代はスーパーが急成長した時代だが、まだまだ八百屋、果物屋、肉屋、魚屋など、食品関係の小売業が伸びている時代だった。東京のどこの商店街に行っても、八百屋、肉屋、魚屋、総菜屋というものが各2~4店くらいはあった。
神田市場にも足しげく通った。今は大田市場が東京の中央卸売市場の中心だが、移転前は神田が青果物の中心であり、各種の業界紙もたくさん出入りし、青果卸売商、仲卸商、小売商等の東京支部、全国連合会本部も市場に近くにあった。特にお世話になったのは東京青果小売商組合であり、またその全国連合会であった。
東京青果小売商協には、取材かたがた訪ね、「青果の流通に詳しいなら、講師に加わってくれないか」と、事務局長が専務や会長にも紹介してくれた。そして独立した年から3年ほど夜間の「経営近代化講座」を担当した。農水省の助成を受けていたかは分からない。神田、新宿、豊島、荏原、足立の5市場で実施され無料講座だった。各会場40~50名が集まり、午後6~8時という店の後かたずけの忙しい時間帯に実施されたが、欠席者もない熱気あふれたものだった。
1年目こそ演題は「青果の生産・流通」だったが、2・3年目からは参加者の優良店を回り、撮った写真をスライド化し、販売中心の話にした。これが受け、テープレコーダーを持ち込み、声のみを熱心に録音するものが多数いたようだ(後日談)。当時の青果商の皆さんは、いかに安く、上手に仕入れるかをセリ現場で競っていたようだ。築地市場で5人の青果店に集まってもらい座談会を持ったことがある。全員が「自分が一番上手に安く仕入れている」との発言に戸惑ったものだ。販売となると、他店を見て回る暇がなく、比較できないためか「俺が一番」との声は出なかった。しかし多くの青果店が「スーパーより新鮮なものを安く売っている」と自信を持っていた時代だ。
青果店のエリートは講演が終わってからも、残って話しかけてくる。こうした人の店を回り、その良さを写真で撮りまくった。たとえば、品川区の大井町にあったAさんは、スーパーですら裸売りや、ポリ袋入りで売っていた時代に、座った姿勢でポリプロピレンを四角に切り、ナスやキュウリ他をトレイを使わず上手にラップし、セロテープで止め販売していた。鮮度が保たれ、かつ見た目も実に美しかった。新宿区の飯田橋かいわいにあったBさんは、無料で配布される産地のポスターをため込み、店内の2つの通路の天井に画びょうで止め、入り口から奥へと計20枚以上も展示し、にぎやかさを演出し、箱の中のトマトなどを列売りもしていた。中野区のCさんは、残った葉物をヒヤリとする床に並べ、鮮度保持を図っていた…数々の優良事例を紹介することで高い評価を受けた。それだけでなく、私も会員の一人として会費を払い「青果店近代化研究会」を結成した。35人ほどの会であったが、毎月20人前後で意見を交換、時に店舗見学も行った。
当時の青果小売業界には「天皇」と呼ばる人がいた。大澤常太郎氏だ。氏は「市場で投機的な高値が出たときはストライキも辞さず」と青果小売組合を大正7年に結成した初代の小売組合長である。そして東京だけでなく、全国青果小売商組合連合会の会長でもあった。職員を引き連れ農水省の中を闊歩するほど。見識もあり態度も実にジェントルマンで、尊敬を一身に集めていた。旧東京市の市会議員もやり,「何苦礎(なにくそ)一代」他3冊の著書もある。
大澤会長は私の名前を憶えていなかったようだが、時に話しかけてくれた。アメリカのロスアンゼルスでスーパー・チェーンを経営する稲富さん(ジョンソンマーケット会長―すでに故人)が日本に来て大澤会長に会う際、「君、あした品川のプリンスホテルに稲富夫婦を迎えに行ってくれ」と特別な任務をおおせつかり、光栄に思ったことがある。稲富さんとはこれが縁で、4回のアメリカ視察のたびに、ラスベガスに行かない視察者5~6人を連れてロスの自宅を訪ねさせてもらった。
神田に事務所を構える全国青果卸売会社協会の関谷尚一会長(当時、神田の東一社長)、全国青果卸売(仲卸)組合連合会の江澤任三郎会長といったドンもいた。それだけ、青果市場は今の数倍も栄えていた証と言える。関谷尚一会長には取材で3度ほど会っていたが、やはり見識を持つジェントルマン。亡くなられた際は、杉並区堀ノ内のオソッサマ(妙法寺)で葬儀が行われた。葬儀の花輪は100本が奥にも3列並び、計300本はあったように思う。驚きだった。
2.公設食料品総合小売市場の失敗
昭和40年ごろには、青果小売店に限らず零細小売店すべてが、スーパーの影響力におびえ始めていた。農水省も対策として、「食料品総合小売市場管理会社法」を農林水産委員会で検討を始めた。これは「小売業の協業化を推進し、経営の近代化を進めるため、東京にとりあえず20ケ所のモデルとなる総合小売市場をつくる」というものだ。もちろん物価対策の側面も大いにあった。スーパーに関係する複数の小売業種から希望者を募り、選抜し、共同の会社を設立、生産性を上げるためレジを置きスーパー化して運営するもの。
農林水産委員会では「少数の者しか参加できず、近隣の小売商にとって逆に悪影響が出る。青果小売商組などは青果信用組合を通じ店舗改善融資も行って、独自に近代化の努力をしているので反対」(前記・大澤会長)とした。東京の青果小売商組は信用組合を持つだけでなく、総合化を目指し加工品他販売資材の共同購入も推進していた。逆に鮮魚小売商組は「近代化の一助になる」と賛成した。
実際に施策が推進されたのは昭和42年ころだと記憶している。私も都内某所の公設市場のアドバイスを担当した。生鮮3品+乾物店といたもので済めばまだしも、薬局や文具店まで参入し、株式会社として一体運営する。ところがスーパーの運営にまったく知識のない文具店の代表が社長の座を求めたため、つかみ合いの深刻な対立が起きた。
関西地方では、大正時代から物価対策のため公設小売市場が多数作られ、各業種がそれぞれのパートを分担した寄合形式で運営し成果をあげてきた。だが新規の施策は、寄合市場でなく、「経営統合した小型スーパー」だ。共同経営もスーパーの経験もない零細小売店が、いっきにそこに行くには無理があった。これまで自力で所得をあげていたものが、月給取りになる・・・との抵抗もあったはず。また指導をするコンサルタントも育っていない時代である(私はこの2年後くらいになって、はじめて陳列や販促のミニ・スーパーの実務指導の経験を積んだのだが)。
大方の事例ではスーパー化にともなう労務管理、仕入れ管理、販売管理、財務管理といったマネージメントが適正にできず、2~3年で破たんに追い込まれた。店舗名は残っていても内実は共同経営者のうちの1人が引き継ぎ、再建するといった姿だった。農水省案は完敗したのである。
3.ボランタリー時代が来ていた
昭和30年代後半や40年代は、専門店が総合化、セルフ化していくため、共同購入を中心に同志的結合するボランタリーチェーンの発展期であった。もちろん急成長をとげるチェーン・スーパーに対抗していくためである。
小型スーパーを主に結集した食品ボランタリーの全日食チェーンやセルコが誕生したのが、共に昭和37年である。そして日本ボランタリーチェーン協会が結成されたのが昭和41年である。複数店舗を要する中堅スーパーマーケットが結集したCGCジャパンが結成されたのはやや遅れ、昭和48年であった。
私は先記の「青果店近代化研究会」を2年ほど続けてきたが、青果専門店として発展していくには「やはり青果専門店では無理」と考えた。いくら鮮度が良く、仕入れ上手で安く売れたとしても、店に入ったら何か買わないと帰れない」といった圧迫が働く。総合化、セルフ化し、自由に出入りできるようにし、買いやすさを付与する・・・こうしないと、スーパーに馴れた消費者にそっぽを向かれる。セルフにすれば、店主が市場から帰るのが遅くとも、奥さんの力で午前9~10時に店を開けることも可能になり、前日の残りの青果と加工食品、菓子、雑貨などを買ってもらうことができる(身近な近隣の店として)。発想とすれば、コンビニに近いものであった。
43年に最初のアメリカ西海岸2週間の視察旅行をした。青果卸、仲卸、小売商38人ほどの視察団で、初日に北端のシアトルでセブン・イレブンも見学した。平冷ケースにスカスカに青果15品ほどが並び、鮮度も極端に悪く腐れ品もあったほど。「これでは手本にならない」と、青果店の仲間と話したほどひどかった。後に日本のコンビニのどのチェーンも、生鮮を避けてスタートしたのは正解であった。向こうは退役軍人や日系2世など、どちらかと言えば、小売に精通していない層がフランチャイジーになり、小売のノウハフに精通していない。かつ勤勉度も日本に劣る。こうした欠点が出ていた。
「日本の青果店は勤勉だし、やる気もある」と、総合化・セルフ化に力点を置いた「みどりチェーンの店」という名の組織を発足させた。昭和45年のことである。セブン・イレブン1号店が登場するのが48年で、その3年前である。都内5市場の小売商の青年部長クラス3人を含む最終11店のミニ・チェーンである。加工食品の仕入れ元は、全日食から分かれたメルシーチェーンの了解のもと、その某店から仕入れさせてもらった。私の友人が精肉コーナーとして入っていて、前からお付き合いのあった店だ。友人の業績が悪く撤退し、従業員が1人宙に浮き、この従業員を午後から助手として雇い、11店へ配送をしてもらった。
問題が一つあった。当時の青果商組は関連品の共同購入を推進していたため、これとバッティングするため、組合のエリートが参加していたものの、青果小売商組との関係を断つはめになった。
4.11店舗のミニ・チェーン推進&阿部幸雄氏
運営形態とすれば、私の主催するフランチャイズだが、月1回の例会などでノウハフの交流をするボランタリーもどきでもある。会員店の売り場規模は7坪から最大で30坪。後に誕生したコンビニは30坪が標準であり、平均からするとかなり狭い。出資金10万円円、会費月1万円、商品供給手数料3%、商品供給はドライ食品は本部配送、日配水物や菓子、雑貨は問屋委託。本部の支援は店舗設計・施行、主にドライ食品の品揃え、売価設、陳列、販促の実務支援。
やはり急ごしらえの感は否めず、マニュアルといったものが全くなく、助手の現場経験から売価を設定したが、参考売価も決められておらず、プライスカードも完全に添付されてなかった。このため日が経つにつれ、売価も徐々に変わってしまったのではと想像する。週1回は特売日を設け、手書きチラシを月1回近隣に1000枚撒き、これに合わせアルバイト運転手を使い宣伝カーを杉並区、新宿区、大田区、足立区と私の声で流して回る。この熱意に惚れて、「先生。先生」と呼ばれながら、チェーンを運営した。実態はフランチャイズに程遠く、かつ特売主導で売り上げを拡大しようとした面で、「便利さを売るコンビニ」とも大きく乖離していた。
44年に中小企業診断士の資格も取った。雑誌での評論、講演中心の評論家的なコンサルタントから、実務にも通じ経営分析もできるコンサルタントに脱皮する「1里塚」と言える体験をしたことになる。いま考えると、ロイアリティ―も少ないが、システム作りができておらず、与えるものも中途半端で、会員店の皆さんに申し訳ないことをしたと思っている。
ところで、多くの人はセブン・イレブン誕生がコンビニのスタートと思っているはず。実際は雪印乳業の研修所長であった阿部幸雄氏が、アイスで通じる面があったアメリカのサウスランド社(セブン・イレブンの主催企業で、アイスの販売からスタートし、1946年=昭和21年に7-11をスタート)をたびたび訪ね、ノウハフを日本に紹介したのだ。昭和46年にまず「発展するコンビニエンスストア アメリカ食品流通のルキー」を、翌47年には「日本で伸びるコンビニエンスストア」の著書を出している。後者では28ページにわたり「実例」として、「みどりチェーンの実践」が紹介された。
私と阿部氏の出会いは、友人診断士の江連立雄氏の仲介による。2冊目の編纂に当たり「みどりチェーンはコンビと本質的に異なるが、小型店の総合化例の数字的資料がないので概略を書いてくれ」と頼まれ、確か28ページ分ほどにわたり会員店の売場面積、客数、客単価、売上高、その各伸び率、運営内容の詳細情報が載っている。渡米前に私の原稿を渡し、阿部先生が旅先のアメリカのホテルで手を加えたものだ。コンビニあらざるもの・・・との評価をいただいたが、青果の強さがマグネットになり、どの店も1.5倍も売上高が伸び、売場効率は抜群に高かった。貴重な1冊を人に貸し返却されず、細かい報告ができないが、最も大きい30坪のばあい、すでに総合化していてノウハフがあったこともあるが、日商170~180万円を実現していた。
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