2017年5月25日木曜日

青果店近代化とミニチェーンの実践(昭和40年代)

 農産物流通の昭和後半史と私-③ボランタリー化

1.「天皇」と呼ばれた大澤常太郎氏(青果小売商組合)

 昭和40年代はスーパーが急成長した時代だが、まだまだ八百屋、果物屋、肉屋、魚屋など、食品関係の小売業が伸びている時代だった。東京のどこの商店街に行っても、八百屋、肉屋、魚屋、総菜屋というものが各2~4店くらいはあった。

 神田市場にも足しげく通った。今は大田市場が東京の中央卸売市場の中心だが、移転前は神田が青果物の中心であり、各種の業界紙もたくさん出入りし、青果卸売商、仲卸商、小売商等の東京支部、全国連合会本部も市場に近くにあった。特にお世話になったのは東京青果小売商組合であり、またその全国連合会であった。

東京青果小売商協には、取材かたがた訪ね、「青果の流通に詳しいなら、講師に加わってくれないか」と、事務局長が専務や会長にも紹介してくれた。そして独立した年から3年ほど夜間の「経営近代化講座」を担当した。農水省の助成を受けていたかは分からない。神田、新宿、豊島、荏原、足立の5市場で実施され無料講座だった。各会場40~50名が集まり、午後6~8時という店の後かたずけの忙しい時間帯に実施されたが、欠席者もない熱気あふれたものだった。

1年目こそ演題は「青果の生産・流通」だったが、2・3年目からは参加者の優良店を回り、撮った写真をスライド化し、販売中心の話にした。これが受け、テープレコーダーを持ち込み、声のみを熱心に録音するものが多数いたようだ(後日談)。当時の青果商の皆さんは、いかに安く、上手に仕入れるかをセリ現場で競っていたようだ。築地市場で5人の青果店に集まってもらい座談会を持ったことがある。全員が「自分が一番上手に安く仕入れている」との発言に戸惑ったものだ。販売となると、他店を見て回る暇がなく、比較できないためか「俺が一番」との声は出なかった。しかし多くの青果店が「スーパーより新鮮なものを安く売っている」と自信を持っていた時代だ。

青果店のエリートは講演が終わってからも、残って話しかけてくる。こうした人の店を回り、その良さを写真で撮りまくった。たとえば、品川区の大井町にあったAさんは、スーパーですら裸売りや、ポリ袋入りで売っていた時代に、座った姿勢でポリプロピレンを四角に切り、ナスやキュウリ他をトレイを使わず上手にラップし、セロテープで止め販売していた。鮮度が保たれ、かつ見た目も実に美しかった。新宿区の飯田橋かいわいにあったBさんは、無料で配布される産地のポスターをため込み、店内の2つの通路の天井に画びょうで止め、入り口から奥へと計20枚以上も展示し、にぎやかさを演出し、箱の中のトマトなどを列売りもしていた。中野区のCさんは、残った葉物をヒヤリとする床に並べ、鮮度保持を図っていた…数々の優良事例を紹介することで高い評価を受けた。それだけでなく、私も会員の一人として会費を払い「青果店近代化研究会」を結成した。35人ほどの会であったが、毎月20人前後で意見を交換、時に店舗見学も行った。

当時の青果小売業界には「天皇」と呼ばる人がいた。大澤常太郎氏だ。氏は「市場で投機的な高値が出たときはストライキも辞さず」と青果小売組合を大正7年に結成した初代の小売組合長である。そして東京だけでなく、全国青果小売商組合連合会の会長でもあった。職員を引き連れ農水省の中を闊歩するほど。見識もあり態度も実にジェントルマンで、尊敬を一身に集めていた。旧東京市の市会議員もやり,「何苦礎(なにくそ)一代」他3冊の著書もある。

大澤会長は私の名前を憶えていなかったようだが、時に話しかけてくれた。アメリカのロスアンゼルスでスーパー・チェーンを経営する稲富さん(ジョンソンマーケット会長―すでに故人)が日本に来て大澤会長に会う際、「君、あした品川のプリンスホテルに稲富夫婦を迎えに行ってくれ」と特別な任務をおおせつかり、光栄に思ったことがある。稲富さんとはこれが縁で、4回のアメリカ視察のたびに、ラスベガスに行かない視察者5~6人を連れてロスの自宅を訪ねさせてもらった。

神田に事務所を構える全国青果卸売会社協会の関谷尚一会長(当時、神田の東一社長)、全国青果卸売(仲卸)組合連合会の江澤任三郎会長といったドンもいた。それだけ、青果市場は今の数倍も栄えていた証と言える。関谷尚一会長には取材で3度ほど会っていたが、やはり見識を持つジェントルマン。亡くなられた際は、杉並区堀ノ内のオソッサマ(妙法寺)で葬儀が行われた。葬儀の花輪は100本が奥にも3列並び、計300本はあったように思う。驚きだった。

2.公設食料品総合小売市場の失敗
 昭和40年ごろには、青果小売店に限らず零細小売店すべてが、スーパーの影響力におびえ始めていた。農水省も対策として、「食料品総合小売市場管理会社法」を農林水産委員会で検討を始めた。これは「小売業の協業化を推進し、経営の近代化を進めるため、東京にとりあえず20ケ所のモデルとなる総合小売市場をつくる」というものだ。もちろん物価対策の側面も大いにあった。スーパーに関係する複数の小売業種から希望者を募り、選抜し、共同の会社を設立、生産性を上げるためレジを置きスーパー化して運営するもの。

 農林水産委員会では「少数の者しか参加できず、近隣の小売商にとって逆に悪影響が出る。青果小売商組などは青果信用組合を通じ店舗改善融資も行って、独自に近代化の努力をしているので反対」(前記・大澤会長)とした。東京の青果小売商組は信用組合を持つだけでなく、総合化を目指し加工品他販売資材の共同購入も推進していた。逆に鮮魚小売商組は「近代化の一助になる」と賛成した。

 実際に施策が推進されたのは昭和42年ころだと記憶している。私も都内某所の公設市場のアドバイスを担当した。生鮮3品+乾物店といたもので済めばまだしも、薬局や文具店まで参入し、株式会社として一体運営する。ところがスーパーの運営にまったく知識のない文具店の代表が社長の座を求めたため、つかみ合いの深刻な対立が起きた。

 関西地方では、大正時代から物価対策のため公設小売市場が多数作られ、各業種がそれぞれのパートを分担した寄合形式で運営し成果をあげてきた。だが新規の施策は、寄合市場でなく、「経営統合した小型スーパー」だ。共同経営もスーパーの経験もない零細小売店が、いっきにそこに行くには無理があった。これまで自力で所得をあげていたものが、月給取りになる・・・との抵抗もあったはず。また指導をするコンサルタントも育っていない時代である(私はこの2年後くらいになって、はじめて陳列や販促のミニ・スーパーの実務指導の経験を積んだのだが)。

大方の事例ではスーパー化にともなう労務管理、仕入れ管理、販売管理、財務管理といったマネージメントが適正にできず、2~3年で破たんに追い込まれた。店舗名は残っていても内実は共同経営者のうちの1人が引き継ぎ、再建するといった姿だった。農水省案は完敗したのである。

3.ボランタリー時代が来ていた
昭和30年代後半や40年代は、専門店が総合化、セルフ化していくため、共同購入を中心に同志的結合するボランタリーチェーンの発展期であった。もちろん急成長をとげるチェーン・スーパーに対抗していくためである。

小型スーパーを主に結集した食品ボランタリーの全日食チェーンやセルコが誕生したのが、共に昭和37年である。そして日本ボランタリーチェーン協会が結成されたのが昭和41年である。複数店舗を要する中堅スーパーマーケットが結集したCGCジャパンが結成されたのはやや遅れ、昭和48年であった。

私は先記の「青果店近代化研究会」を2年ほど続けてきたが、青果専門店として発展していくには「やはり青果専門店では無理」と考えた。いくら鮮度が良く、仕入れ上手で安く売れたとしても、店に入ったら何か買わないと帰れない」といった圧迫が働く。総合化、セルフ化し、自由に出入りできるようにし、買いやすさを付与する・・・こうしないと、スーパーに馴れた消費者にそっぽを向かれる。セルフにすれば、店主が市場から帰るのが遅くとも、奥さんの力で午前9~10時に店を開けることも可能になり、前日の残りの青果と加工食品、菓子、雑貨などを買ってもらうことができる(身近な近隣の店として)。発想とすれば、コンビニに近いものであった。

43年に最初のアメリカ西海岸2週間の視察旅行をした。青果卸、仲卸、小売商38人ほどの視察団で、初日に北端のシアトルでセブン・イレブンも見学した。平冷ケースにスカスカに青果15品ほどが並び、鮮度も極端に悪く腐れ品もあったほど。「これでは手本にならない」と、青果店の仲間と話したほどひどかった。後に日本のコンビニのどのチェーンも、生鮮を避けてスタートしたのは正解であった。向こうは退役軍人や日系2世など、どちらかと言えば、小売に精通していない層がフランチャイジーになり、小売のノウハフに精通していない。かつ勤勉度も日本に劣る。こうした欠点が出ていた。

「日本の青果店は勤勉だし、やる気もある」と、総合化・セルフ化に力点を置いた「みどりチェーンの店」という名の組織を発足させた。昭和45年のことである。セブン・イレブン1号店が登場するのが48年で、その3年前である。都内5市場の小売商の青年部長クラス3人を含む最終11店のミニ・チェーンである。加工食品の仕入れ元は、全日食から分かれたメルシーチェーンの了解のもと、その某店から仕入れさせてもらった。私の友人が精肉コーナーとして入っていて、前からお付き合いのあった店だ。友人の業績が悪く撤退し、従業員が1人宙に浮き、この従業員を午後から助手として雇い、11店へ配送をしてもらった。

問題が一つあった。当時の青果商組は関連品の共同購入を推進していたため、これとバッティングするため、組合のエリートが参加していたものの、青果小売商組との関係を断つはめになった。

4.11店舗のミニ・チェーン推進&阿部幸雄氏
運営形態とすれば、私の主催するフランチャイズだが、月1回の例会などでノウハフの交流をするボランタリーもどきでもある。会員店の売り場規模は7坪から最大で30坪。後に誕生したコンビニは30坪が標準であり、平均からするとかなり狭い。出資金10万円円、会費月1万円、商品供給手数料3%、商品供給はドライ食品は本部配送、日配水物や菓子、雑貨は問屋委託。本部の支援は店舗設計・施行、主にドライ食品の品揃え、売価設、陳列、販促の実務支援。

やはり急ごしらえの感は否めず、マニュアルといったものが全くなく、助手の現場経験から売価を設定したが、参考売価も決められておらず、プライスカードも完全に添付されてなかった。このため日が経つにつれ、売価も徐々に変わってしまったのではと想像する。週1回は特売日を設け、手書きチラシを月1回近隣に1000枚撒き、これに合わせアルバイト運転手を使い宣伝カーを杉並区、新宿区、大田区、足立区と私の声で流して回る。この熱意に惚れて、「先生。先生」と呼ばれながら、チェーンを運営した。実態はフランチャイズに程遠く、かつ特売主導で売り上げを拡大しようとした面で、「便利さを売るコンビニ」とも大きく乖離していた。

44年に中小企業診断士の資格も取った。雑誌での評論、講演中心の評論家的なコンサルタントから、実務にも通じ経営分析もできるコンサルタントに脱皮する「1里塚」と言える体験をしたことになる。いま考えると、ロイアリティ―も少ないが、システム作りができておらず、与えるものも中途半端で、会員店の皆さんに申し訳ないことをしたと思っている。

 ところで、多くの人はセブン・イレブン誕生がコンビニのスタートと思っているはず。実際は雪印乳業の研修所長であった阿部幸雄氏が、アイスで通じる面があったアメリカのサウスランド社(セブン・イレブンの主催企業で、アイスの販売からスタートし、1946年=昭和21年に7-11をスタート)をたびたび訪ね、ノウハフを日本に紹介したのだ。昭和46年にまず「発展するコンビニエンスストア アメリカ食品流通のルキー」を、翌47年には「日本で伸びるコンビニエンスストア」の著書を出している。後者では28ページにわたり「実例」として、「みどりチェーンの実践」が紹介された。

私と阿部氏の出会いは、友人診断士の江連立雄氏の仲介による。2冊目の編纂に当たり「みどりチェーンはコンビと本質的に異なるが、小型店の総合化例の数字的資料がないので概略を書いてくれ」と頼まれ、確か28ページ分ほどにわたり会員店の売場面積、客数、客単価、売上高、その各伸び率、運営内容の詳細情報が載っている。渡米前に私の原稿を渡し、阿部先生が旅先のアメリカのホテルで手を加えたものだ。コンビニあらざるもの・・・との評価をいただいたが、青果の強さがマグネットになり、どの店も1.5倍も売上高が伸び、売場効率は抜群に高かった。貴重な1冊を人に貸し返却されず、細かい報告ができないが、最も大きい30坪のばあい、すでに総合化していてノウハフがあったこともあるが、日商170~180万円を実現していた。

2017年4月1日土曜日

日本のラルフネーダー竹内直一氏と出会う(昭和40年)!

農産物流通の昭和後半史と私-②相対取引の提言

1.退社理由は単純ではない
 安定したサラリーマン(JA系「家の光協会」編集部)を辞めたのは昭和40年4月1日。2月5日ごろに、地区ごとに区分されていた「東北版」の農業取材のため、仙台に赴任せよ・・・の内示を受けた。これを拒否し「辞めたい」と会社に伝えたのは3月10日ごろだった。編集次長と東北のJA関係団体に挨拶に行く日だ。途中、編集局理事の家に辞表を届け、上野駅まで行ったものの「このまま挨拶に行けば引き返しがきかない」と思い、次長に告げず駅近くのホテルに泊まり、翌日は本社にも出向かず無断欠勤した。

   退社理由は、で述べた「農産物流通問題かぶれになったから」という単純ものではない。私は兄2人、姉1人兄弟の4番目だったが、末っ子として母と唯一生活し、この年老いた母を1人東京に残せない(母は気丈夫に東北に行けといってくれていたが)昭和39年に当時の12チャンネルの編集枠が「家の光協会」にも割り振られ、「新規のテレビの仕事をやりたい」と思ったが、担当枠2人の中にはいれなかった・・・こうしたことも理由であった。

まだ入社6年目の駆け出しの農業記者に、他社から声が掛かるはずもない。 3月20日ごろには独立時に配るべき「農業革命への提言」(A4の12ページ、上下段組。単行本にすれば48ページほどにすぎない)の原稿を、タイプ印刷会社を神田でやっていた従姉に渡し、印刷をしてもらった。無料の押し付け作業である。 この従姉と家の光時代に原稿を書いてもらった元産経新聞記者の松浦恵氏には一生涯頭が上がらない。松浦氏は昭和41年に独立し、「農経新聞」主幹になった。そして畜産の新聞を青果の新聞に変え、海外視察団を何十回も送り出す辣腕家だった。2~3年にわたり嘱託や正規の記者として働かしてくれた。またその後の4~8年間のなかでアメリカ視察2度、ヨーロッパ視察1度について無償(当方が松浦氏の代理案内人)や廉価で連れていってくれたのだ。

2.農業の基本的ハンディへの挑戦
   私が書いた名刺代わりの「農業革命への提言」(S40年4月10日)は、農業記者経験6年=29才の若造とすれば、農業の基本問題の分析に立ち、よく書けていると思っている。提言のポイントは・・・

       農業は広い農地や太陽エネルギーに依存し、(イ)固定資本の回転率が悪く、(ロ)作物という流動資本も太陽エネルギーの量に影響され、回転が悪い、(ハ)お天気頼みで生産不安定、(ハ)多数の分散生産・販売で、独占的販売の進む工業に比し、有利な販売はしにくい・・・これらハンディを克服しにくく、アメリカにおいても農業への補助は厚い。
   ②    だが補助金に頼っていては高い収入は実現できない。マネージメントなき農業に、マネージメントを導入すべきである。
   ③ 農業革命と言われているが、高度成長経済という外圧が見立ち、変革の担い手が生まれていない(若い人の流失)。
   ④ 米麦農業から脱皮、稲作+アルファ(青果や畜産)を育て、農業を所得的にも魅力あるものにする。これは蛋白+ミネラル農政への転換を意味し、若い変革の担い手も生む。
   ⑤ 水田や産地での飼料作物や草の生産を拡大し、輸入飼料に頼らない畜産の振興を。
   ⑥ 農業は土地依存度が高い。規模拡大と言っても、購入方式では進まないし、コスト・アップにつながる。「闇小作料を公然化し、農地の集中を図るべき」である。
   ⑦ また今後も農業からのリタイアーが増えるので、農協や専業農家による「請負耕作」を大いに推進。これが+アルファー部門の拡大にもつながる。
   ⑧ 非独占に甘んじるのでなく、品種や立地の特性を活かし、できるだけ地区ごとに独占的な地位を築き有利性を発揮する(後の一村一品運動に通じる)。
 ⑨ 生産品をストレートに市場に出すのでなく、農協は余剰分を貯蔵・加工できる施設を持ち、いまで言う6次産業化の担い手になる。具体例として、北海道の中札内農協、静岡県の庵原農協、愛媛県の温泉郡農協、滋賀県の水口町農協等の名を紹介(その後どうなったか?)。
 ⑩ 土地の桎梏から逃れるための、土地なし&土地依存度の少ない、ハウス栽培、一腹搾り(酪農)、土地なし養鶏・養豚などの肯定する必要がある。

・・・簡単にまとめにくいが、ざっと以上のような論旨である。農業者は、消費者に「農業の本質的なハンディ」を理解してもらう一方、ハンディに埋没してしまえば支持は得られない。これは今日的な課題でもある。

 3.相対取引推進の「流通センター新聞」発行
    当時の退職金は6年勤務で、たしか27万円であった。わずかだが残っていた借金を返し、固定電話を買えば、残りは20万円。すでに娘1人がいたが貯金もなし。母が大学生の下宿人2~3人を置き(幸い荻窪の自宅は6部屋)、これに助けられ、どうにか生活ができた。経済的に見れば、実に無謀な独立であった。それでも、高度成長入口の当時にあって「脱サラ」は極めて珍しく、出版社の方が訪ねて来て、荻窪の喫茶店で取材を受けた。あとで6人ほどの脱サラ体験者の取材本が届いた。

やはり雑誌記者という体験から、流通への思いを表現したいため業界新聞を作ることにした。その名は「流通センター新聞」。肉の枝肉センターがすでに設置されていたが、セリでなく解体した枝肉を業者に相対で売るのが特徴。青果物でも、既存の卸売市場のセリ取引を否定する相対取引の施設は、「流通センター」と呼ぶに値する。相対市場を形成していくべきだ・・・との主張から「流通センター新聞」とした。無料で配布し、広告で運営することにしたが、この目論見はすぐ破たんした。突然「新聞を作るから広告をくれ」と持ち掛けても、だれも相手にしてくれない。9万円ほどがすっ飛び、1回の発行で終わってしまった。

だが、無駄にはならなかった・・・相対や産地直取引きの事例記事のほか、広告を取りたいとの期待もあって、移動販売車の記事も大々的に書いた。たまたまA会社が「移動販売車」という、冷蔵車による近代的な引き売りを開始することが評判になっていた。このA社も、新アイデアだけに厚生省などの認可にてこずっていた。

政府は物価対策もあって経済企画庁に、新たに国民生活局を設け、農林省の次官候補の1人であった中西一郎氏(退官後に参議院議員に)を据えていた。この下に、後に消費者運動に身を投じ「日本のラルフネーダー」と言われた竹内直一参事官がいた。A社の社長が局面打開のため、何度も竹内氏に会っていたようで、私の発行した「流通センター新聞」を竹内氏に見せたようだ。こんなことで竹内氏から声が掛かり会うことができ、「近藤君、局員を集めるから、君の構想をしゃべってくれないか」ということになった。まさに「地獄に仏」である。竹内氏は東大法学部政治学科卒で、農水省ー経済企画庁と官僚の道を歩みながらも、43年に退官し翌年「日本消費者連盟設立委員会」を立ち上げ、49年に同・連盟を設立し代表委員になった。私に会った時から「世のため人のために行動する稀有な官僚」だっように思う。

約束の日に伺うと中西一郎局長、竹内参事官のほかに、一般の官僚も含め、計15人ほどが集まっていた。広い部屋の一隅であった。私は日ごろ考えているままを、淡々と説明した・・・「今の中央市場にせよ地方市場にしても、中心はセリ取引。貯蔵設備もないまま、全量をセリに掛ければ、ときに相場は2倍にも3倍にもなる。乱高下が起きれば、情報の少ないまま生産を調整し、さらに次の乱高下を産む。市場取引の改革をする一方、食肉センターのように冷蔵施設も持ち、ときに一部プリパッケージも手掛けるような流通センターを設ける必要がある」「相対取引が主流になれば、小売り側と産地の安定的な直取引も可能になる」と。

 私のレクチャーが、どの程度のインパクトを与えたかは分らない。しかしJA全農は、埼玉の戸田橋に昭和43年11月に、大阪府に47年11月に、神奈川県の大和市に48年8月にそれぞれ生鮮食品センターを開設した。当時、経済企画庁国民生活局は、物価対策を始め国民生活全体の安定のため作られた部局である。全農を呼びつけ、「新たな相対中心の流通体系を作れ」とか、市場関係者に相対取引の拡大を指示したことはほぼ間違いない。そして予約相対取引は、現在では主流に育っている。セリ+入札取引の中央卸売市場での比率は年々低下し、青果物の場合平成10年には49.3%になり、25年にはなんと11.6%にまで減っている。現在は予約相対の比率が88%までに達していることになる。

 なお、プリパッケーイジについては、東京神田市場の卸である日本一の東印・東京青果がナショナル・ホールセールなる子会社を設け、プリパッケージを開始したのが昭和40年か41年ごろ。早速、取材に行ったものだ。

4.産地直送ではヨーカドーの伊藤雅俊氏にも
 独立と同時に、小売業と産地との直取引の取材も始めていた。事例はすこぶる少なく、東京の新宿などげ看板が目立つ「甲信園」とか、杉並のほうの「一実屋」など、山梨と関係ある果物屋が、山梨のモモ、ブドウなどを仕入れ・販売するケースが見立ち、野菜の直送ケースはなかった。スーパーの中堅企業「エコス」を築いた、当時青果店を5店ほどを経営する平富郎氏にもその後巡り合ったが、やはり山梨の果物の直仕入れをしていた。車で行きやすい山梨に、ブドウやモモの優良な大型産地があり、取引しやすかったのが理由だろう。「お祭りや、その他の付き合いもし、人間関係を深めねばならず、安さの実現はなかなかできない」の声が聞かれた。

牛肉については、ダイエーがまだ祖国復帰していない沖縄に、アメリカの牛を入れ、沖縄日本間が無関税の利点を生かし、沖縄から輸入する・・・という形で、廉価輸入を実現し、話題をさらっていた。私はこんな時代に雑誌・商業界に出向き、お願いし「販売革新」「商業界」に産地直取引の記事を書き始めた。当時、まだ農産物の流通に通じた人が少なく、駆け出しの私にもチャンスが与えられた。「農産物の流通=暗黒大陸を切る」といったタイトルの記事を書いたのを覚えている。

いろいろ事例が少ないなかで、直取引きの願望ばかりが先行していたのだろう。当時、イトーヨーカドーの青果部長をしていた塙昭彦さん(後に中国進出の立役者。セブン&アイ・フードシステムやデニーズジャパンの代表取締役)から「産地直取引は、まだ実践するには早すぎる」の電話をいただき「一度話に来いよ」と云われ、イトーヨーカドー本社を訪ねた。入口付近で立って待っていると、恰幅の立派な方が出てこられ、「お客さん、お待ちならあちらの椅子にお掛けください」とさりげなく通りすぎたのが、当時の伊藤雅俊社長であった。あとで塙さんから生鮮センターの開所式に招かれ際、名刺をいただき「あの時の方」と気付いた次第だ。

 日本一、収益力の高いビッグストアを育てた方だが、「さすが他人への配慮の行き届いた方」と、この時以来イトーヨーカドーのフアンであり続けた。また塙さんの「産地直送は早すぎる」の提言と一致するかのように、かなり時間軸をずらして、ヨーカドーは他チェーンを大きく引き離す「顔の見える」シリーズの青果を揃えている。物価問題から入り、「産地直送で安さが手に入る」としたが間違い。生鮮のばあい「鮮度の良さ、素性の明確化、安定供給」などの総合要素がないと成立しない・・・と気がついたのは、かなり高度成長の進んだあとである。

昭和43年くらいに、某経済連の講習会に講師として呼ばれて出向いたとき、部長さんは「産直の取引量は少なく、かつ不安定。市場への供給より手間もかかり、高く売る必要がある」と、単協関係者に舞台裏で諭していた。これが当時の現実だった。いすれにしろ、収入はほとんどないが、私にとって昭和40年は独立後の人生で、一番意義深い年であった。




2017年3月25日土曜日

セリ取引の乱高下に泣く(昭和30年代後半)

農産物流通の昭和後半史と私-①脱サラへの道


今後の予定
日本のラルフネーダー竹内直氏と出会う
アメリカの流通視察で得たもの
青果店とのお付合いとミニFCの実践
VCのミニ・スーパーと共に10年
大規模SMとコンビニの隆盛時代に

1.農産物流通問題に引かれ脱サラ
 私がJA系の社法人「家の光協会」編集部記者を辞めたのは昭和40年、29才の時である。雑誌「家の光」はこの時、月180万部と日本一の発行部数を誇った。農村エリート向けの「地上」も発行していた。家の光協会勤務はわずか6年で、うち3年が家の光編集部、2年が地上編集部、残り1年は両者兼務であった。いずれにしても「家の光」が最ピークの年に、農産物流通コンサルタントの肩書で独立した。

 編集部の最後2年間に、1年目は「畑から台所」(昭和38年度)、2年目は「流通パトロール」(39年度)と農産物流通の連載記事を担当した。自由にテーマを選び24回連載をしたことになる。野菜を中心に農産物の暴騰、暴落がくり返され、農業者だけでなく、都会の消費者もまた泣かされる日々が続き、農産物の流通がクローズアップされていた。だからこそ連載記事を書き、挙句の果て「流通かぶれ」になり独立してしまった。

 当時の農産物流通の状況を知る手がかりが残っている・・・昭和41年6月8日の51回国会・農林水産委員会の討論内容である。

 児玉(末男)委員 「行政管理庁が5月27日に出した生鮮食料品の生産および流通に関する行政監察の結果によると、昭和35年から40年にかけて、消費者物価の値上がりについては、特に生鮮食料品が激しく、中でも野菜は97%の値上がりを示している」。

「一般の消費者物価は昭和35年に比し40年は35%の値上がり、うち生鮮品は平均56%値上がり、そして野菜は約倍(97%)の値上がり」という数字あげ、輸送費中心の質問をしている。

 小林(誠)政府委員 「野菜の小売価格は5年間で96%の値上がりですが、卸価格も95%ほど値上がり。農家の手取りと言える庭先価格も昭和39年までに約90%アップ」と説明。また値上がりの原因として、「以前と違う、単価の高い端境期の出荷が増えた」「野菜は非常に人手を要するが、都市への移動で人手不足」「流通段階でも非常に人手がかかる」と説明。また「10アール当たりの投下労働時間はアメリカに比し、露地栽培でだいたい2倍、施設栽培だと3倍、4倍」と指摘。

児玉(末男)委員 「中部管区行政監察局の追跡調査についての新聞報道では、(野菜?)小売価格を100%とすると、生産者手取りは22.6%、小売マージンが32.7%(時に66.2%?)。そして、それから中間マージンが全体が77.4%になっている。生産者価格と小売価格との格差が2~5倍にもなる」と指摘。(この数値はどこかで、メモの間違いがあると思うが、小売マージンの平均32.7%(ロスを見込んだ数字)の方は、現在時点でも通じる妥当なもの)。

2.連動していた野菜と所得の上昇
  当時、暴騰・暴落の代表格が野菜であったことは、今も変わらないように思うが、その価額が5年で1.97倍であったのは、現在と比べ「相当ひどいもの」である。総務庁「家計費調査」によれば、オール野菜の平均単価は平成21年を1とした場合、丸5年後の26年は1.10倍(38.54/35.02円-100g当たり)である。現在も上昇傾向にあるものの、当時に比べれば1/10の上昇幅に過ぎない。

当時、すでに「高度成長」の言葉が使われていたものの、ほんの入口で大卒の私の初任給は昭和34年当時12,000円(国家公務員6級職10,500円)、辞めた40年で2,5000円程度と記憶している。5年換算にすれば野菜の2倍と同レベル。野菜の上昇は「所得の上昇に連動していた」(さらには生産者の手取り増にも)ということになる。逆に他の農産物の価格はサラリーマンの所得向上に追いついていなかったとも言える。

上記、委員会でも暴騰・暴落がくり返される原因について、「生鮮品は腐りやすく、産地や市場に貯蔵機能がないまま市場販売すれば乱高下を産む」「産地がバラバラに生産・出荷していて、出荷量の全体が見えない。このため出荷量が消費量とバランスせず乱高下が起きる」との指摘がされている。これを是正するため、昭和41年に「野菜生産出荷安定法」が施行され、品目別の指定産地が決められ、「指定産地は指定消費地に生産量の1/2を出荷することにより、生産補給交付金を受けることができる」ようになった。

3.セリ取引へのメスはまだだった
 ところで当時の問題点の一つは乱高下の激しさにあった。消費者は高騰に、生産者は低落に泣かされ、そのたびに新聞に大きく報道された。当時の正確な数字がないが、中央卸売市場の取引の90%以上がセリ取引であったはず。競って商品を得ようとする場合、入荷量が20%少なければ、1.5倍の値がついてもおかしくない。逆に入荷量が20%余り気味なら、競争する必要はなくセリは成立しにくく、半値に下落しても不思議でない。だがこの時の農林水産委員会では「セリが乱高下を助長するもの」といった、セリ取引中心の市場体質について触れられておらず、ここに問題が残されていた。

 そして、どちらかと言えば、「中間流通コストが高いが、どうするか」の視点が中心だった。つまり包装手段、輸送手段、産地や消費地の貯蔵施設、流通に関わる人の人件費高騰といった点だ。このため輸送については41年の委員会では、鉄道輸送が中心的に議論されたが、トッラク輸送にまだ言及されていない。貨車に乗せ、貨物駅でトラックに乗せ換えて市場に運ぶ。このため時間も手間もかかり、鮮度も低下。迅速な市場相場への対応も困難・・・という不合理性にもセリ取引同様に、気付いていなかったように思う。また、中間流通のコストカットや高鮮度確保のための「産地直取引」という概念についても、まったく言及されていなかった。

鉄道輸送中心の議論は、当時まだ高速道路が全く開通していなかったことと関係する。高速道路が確立すれば畑から市場への直送体制ができる。昭和31年「ワトキンス」という調査団が来て、「工業国でありながら、日本は道路網の完備をまったく無視している」とし、高速道路公団が同31年に発足、実際に初の高速である名神高速道路(75km)が開通したのが昭和38年である。

4.興味は都市のスーパーや消費動向
   私は消費地の東京神田の生まれながら、農工大学農学部卒である。生産から消費を同時に体験できる立場にあった。このため「暴騰・暴落に泣く生産者と消費者」の現実に、興味を持って当然である。2つの連載を通じ、群馬県のキャベツの大産地「嬬恋村」や、当時すで6次産業化を達成していたポンジュースの愛媛青果連、北海道の中札内農協、静岡の庵原農協などを訪ねた。生鮮品の場合、加工というクッションがないと、全量出荷し価格の乱高下を招くと考えたからだ。また食肉については、相対取引の新潟県内の枝肉センターを訪ねた。セリ万能時代に新風を吹き込むと見たからである。

だが興味は都市部の動きだった。当時すでにダイエー、ヨーカドー、ジャスコ、ユニーなどのビッグ・ストアのチェーンが全国展開し、関東では西友ストア、東急、京王、小田急、東武など電鉄系のスーパーが多店舗展開。私は農業記者の立場で、東急ストア本部や「いなげや」、当時あった「しずおかや」、高級スーパーの青山の「紀ノ国屋」、対面販売だが、強力な生鮮の販売力を誇る四谷3丁目の「丸正本店」などの本部を訪ね、主に青果の担当者に会い、仕入れや販売の実態を農家の人に知らしめるために報道した。消費者について理解を深めるため、消費科学連合会の三巻秋子氏との面談記事も書いた。

当時の消費実態はどうか。独立時の昭和40年4月に名刺代わりに「農業革命への提言」なる小冊子を配った。冊子では、「先進国では澱粉系(麦、米等)、蛋白系(肉、牛乳。乳製品、鶏卵等)、ビタミン系(野菜、果物)の食品が1対1対1の割合で消費されいるが、日本は澱粉系52.0%、蛋白系19.5%、ビタミン系17.5%、その他11.0%で3対1対1に近い。例えば蛋白系の肉の年間消費量は1人9kg(昭和39年)に対し、西ドイツは約7倍の61kg、イギリス約8.5倍の90Kg、鶏卵も2倍近い水準。ビタミン系の野菜は日本の場合、1人年97kgの消費で先進のトップグルーに近く、アメリカは96kgだった。果物は30kgでアメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスの約2/3」としている。ただし野菜はダイコン、ハクサイなどの澱粉系が多く、ビタミン系の消費急増もあって、価格が急騰したように見られる。鶏卵はこの時期すでに大規模化が進み、「物価の優等生」と言われ続けてきた。

   小冊子では、「蛋白・ビタミン農政に転換することが、物価問題の解決につながる。それには米麦中心の米価審議会を止め、農業総合構造・物価審議会に換え、需給バランスを政治的に作り直すべきだ」と提言している。大海に投げた一石に過ぎず効力なし。米麦中心農政は今日まで続いてきたといえる。

   時代は飛んで、最近(平成29年3月28日)になり、JA全農は事業計画の基礎になる改革方針を発表した。これによれば、農産物を小売りに直接販売する方式について、
①米の直売比率は全量の4割だが、これを平成36年までに9割にする。
②野菜や果物は現在直売比率3割を36年に5割強にする。
・・・生協の共同購入が進んだり、農産物直売所が登場したりで、消費地ー産地直結の取引も、上記のように米で4割、野菜・果物で3割と伸びてきたのだが、昭和40年時点では、これらはゼロに近かったのである。

2017年2月21日火曜日

新田次郎さんと福井県の三方五湖他の旅

1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの
  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月三日

「黒き衣」とは、2日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。

 下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。

2017年1月17日火曜日

昔の小売りの匠が今はコンスターチ粘土の匠に!

    皆さん、コンスターチ粘土を知っていますか?トウモロコシ粉を原料にした粘土で、子供さんが仮に口に入れても無害。その上、指先の暖かさで自由に伸ばせ、色も2色以上を混ぜ合わせて自由に出せる(市販のものは9色セット)。もちろん自分でも粘土を作ることができる(ネットに作り方が多数掲載)。良く伸び、光沢や透明感もあるため、花弁や葉なども自由に作れ、生け花代わりのゴージャスな花を作るのに特に適しているように思う。
 50~40年前にお付き合いしていたスーパーの店主の羽鳥安司さん(男性)という方に最近久しぶりに会った。すでに小売店経営から離れてかなり経つようだが、現在は山梨県の山中湖に本拠地を置き、コンスターチ粘土で実物以上に美しい生け花や盆栽、干支などの置物を創る先生をしている。会った際に2017年の干支の鳥の作品ももらった。
    写真のように、本物そっくりで「ビューティフル」「ワンダフル」と言える作品がどっさりあり、お花の大先生にも匹敵する技量の持ち主。かつて東京の千駄ヶ谷で30坪(現在のコンビニの大きさに匹敵。コンビニは1店平均50万円ほど)しかない店で1日180万円も売った小売りの匠だ。この匠的な研究熱心さがコンスターチ粘土の世界でも発揮され、多くのお弟子さんが集まっている。
    山中湖はもちろん東京でも講座を持っているくらい評判がよく、仏子でも希望者がいれば講座を開いもらっては・・・と思うほどだ。月2回ほどの授業料は1千円ほどのボランティアのような金額。市販のコンスターチ粘土は特許製品のようで、材料費が比較的かかる様子。
 (写真にはお弟子さん分も含む)