2017年3月25日土曜日

セリ取引の乱高下に泣く(昭和30年代後半)

農産物流通の昭和後半史と私-①脱サラへの道


今後の予定
日本のラルフネーダー竹内直氏と出会う
アメリカの流通視察で得たもの
青果店とのお付合いとミニFCの実践
VCのミニ・スーパーと共に10年
大規模SMとコンビニの隆盛時代に

1.農産物流通問題に引かれ脱サラ
 私がJA系の社法人「家の光協会」編集部記者を辞めたのは昭和40年、29才の時である。雑誌「家の光」はこの時、月180万部と日本一の発行部数を誇った。農村エリート向けの「地上」も発行していた。家の光協会勤務はわずか6年で、うち3年が家の光編集部、2年が地上編集部、残り1年は両者兼務であった。いずれにしても「家の光」が最ピークの年に、農産物流通コンサルタントの肩書で独立した。

 編集部の最後2年間に、1年目は「畑から台所」(昭和38年度)、2年目は「流通パトロール」(39年度)と農産物流通の連載記事を担当した。自由にテーマを選び24回連載をしたことになる。野菜を中心に農産物の暴騰、暴落がくり返され、農業者だけでなく、都会の消費者もまた泣かされる日々が続き、農産物の流通がクローズアップされていた。だからこそ連載記事を書き、挙句の果て「流通かぶれ」になり独立してしまった。

 当時の農産物流通の状況を知る手がかりが残っている・・・昭和41年6月8日の51回国会・農林水産委員会の討論内容である。

 児玉(末男)委員 「行政管理庁が5月27日に出した生鮮食料品の生産および流通に関する行政監察の結果によると、昭和35年から40年にかけて、消費者物価の値上がりについては、特に生鮮食料品が激しく、中でも野菜は97%の値上がりを示している」。

「一般の消費者物価は昭和35年に比し40年は35%の値上がり、うち生鮮品は平均56%値上がり、そして野菜は約倍(97%)の値上がり」という数字あげ、輸送費中心の質問をしている。

 小林(誠)政府委員 「野菜の小売価格は5年間で96%の値上がりですが、卸価格も95%ほど値上がり。農家の手取りと言える庭先価格も昭和39年までに約90%アップ」と説明。また値上がりの原因として、「以前と違う、単価の高い端境期の出荷が増えた」「野菜は非常に人手を要するが、都市への移動で人手不足」「流通段階でも非常に人手がかかる」と説明。また「10アール当たりの投下労働時間はアメリカに比し、露地栽培でだいたい2倍、施設栽培だと3倍、4倍」と指摘。

児玉(末男)委員 「中部管区行政監察局の追跡調査についての新聞報道では、(野菜?)小売価格を100%とすると、生産者手取りは22.6%、小売マージンが32.7%(時に66.2%?)。そして、それから中間マージンが全体が77.4%になっている。生産者価格と小売価格との格差が2~5倍にもなる」と指摘。(この数値はどこかで、メモの間違いがあると思うが、小売マージンの平均32.7%(ロスを見込んだ数字)の方は、現在時点でも通じる妥当なもの)。

2.連動していた野菜と所得の上昇
  当時、暴騰・暴落の代表格が野菜であったことは、今も変わらないように思うが、その価額が5年で1.97倍であったのは、現在と比べ「相当ひどいもの」である。総務庁「家計費調査」によれば、オール野菜の平均単価は平成21年を1とした場合、丸5年後の26年は1.10倍(38.54/35.02円-100g当たり)である。現在も上昇傾向にあるものの、当時に比べれば1/10の上昇幅に過ぎない。

当時、すでに「高度成長」の言葉が使われていたものの、ほんの入口で大卒の私の初任給は昭和34年当時12,000円(国家公務員6級職10,500円)、辞めた40年で2,5000円程度と記憶している。5年換算にすれば野菜の2倍と同レベル。野菜の上昇は「所得の上昇に連動していた」(さらには生産者の手取り増にも)ということになる。逆に他の農産物の価格はサラリーマンの所得向上に追いついていなかったとも言える。

上記、委員会でも暴騰・暴落がくり返される原因について、「生鮮品は腐りやすく、産地や市場に貯蔵機能がないまま市場販売すれば乱高下を産む」「産地がバラバラに生産・出荷していて、出荷量の全体が見えない。このため出荷量が消費量とバランスせず乱高下が起きる」との指摘がされている。これを是正するため、昭和41年に「野菜生産出荷安定法」が施行され、品目別の指定産地が決められ、「指定産地は指定消費地に生産量の1/2を出荷することにより、生産補給交付金を受けることができる」ようになった。

3.セリ取引へのメスはまだだった
 ところで当時の問題点の一つは乱高下の激しさにあった。消費者は高騰に、生産者は低落に泣かされ、そのたびに新聞に大きく報道された。当時の正確な数字がないが、中央卸売市場の取引の90%以上がセリ取引であったはず。競って商品を得ようとする場合、入荷量が20%少なければ、1.5倍の値がついてもおかしくない。逆に入荷量が20%余り気味なら、競争する必要はなくセリは成立しにくく、半値に下落しても不思議でない。だがこの時の農林水産委員会では「セリが乱高下を助長するもの」といった、セリ取引中心の市場体質について触れられておらず、ここに問題が残されていた。

 そして、どちらかと言えば、「中間流通コストが高いが、どうするか」の視点が中心だった。つまり包装手段、輸送手段、産地や消費地の貯蔵施設、流通に関わる人の人件費高騰といった点だ。このため輸送については41年の委員会では、鉄道輸送が中心的に議論されたが、トッラク輸送にまだ言及されていない。貨車に乗せ、貨物駅でトラックに乗せ換えて市場に運ぶ。このため時間も手間もかかり、鮮度も低下。迅速な市場相場への対応も困難・・・という不合理性にもセリ取引同様に、気付いていなかったように思う。また、中間流通のコストカットや高鮮度確保のための「産地直取引」という概念についても、まったく言及されていなかった。

鉄道輸送中心の議論は、当時まだ高速道路が全く開通していなかったことと関係する。高速道路が確立すれば畑から市場への直送体制ができる。昭和31年「ワトキンス」という調査団が来て、「工業国でありながら、日本は道路網の完備をまったく無視している」とし、高速道路公団が同31年に発足、実際に初の高速である名神高速道路(75km)が開通したのが昭和38年である。

4.興味は都市のスーパーや消費動向
   私は消費地の東京神田の生まれながら、農工大学農学部卒である。生産から消費を同時に体験できる立場にあった。このため「暴騰・暴落に泣く生産者と消費者」の現実に、興味を持って当然である。2つの連載を通じ、群馬県のキャベツの大産地「嬬恋村」や、当時すで6次産業化を達成していたポンジュースの愛媛青果連、北海道の中札内農協、静岡の庵原農協などを訪ねた。生鮮品の場合、加工というクッションがないと、全量出荷し価格の乱高下を招くと考えたからだ。また食肉については、相対取引の新潟県内の枝肉センターを訪ねた。セリ万能時代に新風を吹き込むと見たからである。

だが興味は都市部の動きだった。当時すでにダイエー、ヨーカドー、ジャスコ、ユニーなどのビッグ・ストアのチェーンが全国展開し、関東では西友ストア、東急、京王、小田急、東武など電鉄系のスーパーが多店舗展開。私は農業記者の立場で、東急ストア本部や「いなげや」、当時あった「しずおかや」、高級スーパーの青山の「紀ノ国屋」、対面販売だが、強力な生鮮の販売力を誇る四谷3丁目の「丸正本店」などの本部を訪ね、主に青果の担当者に会い、仕入れや販売の実態を農家の人に知らしめるために報道した。消費者について理解を深めるため、消費科学連合会の三巻秋子氏との面談記事も書いた。

当時の消費実態はどうか。独立時の昭和40年4月に名刺代わりに「農業革命への提言」なる小冊子を配った。冊子では、「先進国では澱粉系(麦、米等)、蛋白系(肉、牛乳。乳製品、鶏卵等)、ビタミン系(野菜、果物)の食品が1対1対1の割合で消費されいるが、日本は澱粉系52.0%、蛋白系19.5%、ビタミン系17.5%、その他11.0%で3対1対1に近い。例えば蛋白系の肉の年間消費量は1人9kg(昭和39年)に対し、西ドイツは約7倍の61kg、イギリス約8.5倍の90Kg、鶏卵も2倍近い水準。ビタミン系の野菜は日本の場合、1人年97kgの消費で先進のトップグルーに近く、アメリカは96kgだった。果物は30kgでアメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスの約2/3」としている。ただし野菜はダイコン、ハクサイなどの澱粉系が多く、ビタミン系の消費急増もあって、価格が急騰したように見られる。鶏卵はこの時期すでに大規模化が進み、「物価の優等生」と言われ続けてきた。

   小冊子では、「蛋白・ビタミン農政に転換することが、物価問題の解決につながる。それには米麦中心の米価審議会を止め、農業総合構造・物価審議会に換え、需給バランスを政治的に作り直すべきだ」と提言している。大海に投げた一石に過ぎず効力なし。米麦中心農政は今日まで続いてきたといえる。

   時代は飛んで、最近(平成29年3月28日)になり、JA全農は事業計画の基礎になる改革方針を発表した。これによれば、農産物を小売りに直接販売する方式について、
①米の直売比率は全量の4割だが、これを平成36年までに9割にする。
②野菜や果物は現在直売比率3割を36年に5割強にする。
・・・生協の共同購入が進んだり、農産物直売所が登場したりで、消費地ー産地直結の取引も、上記のように米で4割、野菜・果物で3割と伸びてきたのだが、昭和40年時点では、これらはゼロに近かったのである。

2017年2月21日火曜日

新田次郎さんと福井県の三方五湖他の旅

1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの
  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月三日

「黒き衣」とは、2日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。

 下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。

2017年1月17日火曜日

昔の小売りの匠が今はコンスターチ粘土の匠に!

    皆さん、コンスターチ粘土を知っていますか?トウモロコシ粉を原料にした粘土で、子供さんが仮に口に入れても無害。その上、指先の暖かさで自由に伸ばせ、色も2色以上を混ぜ合わせて自由に出せる(市販のものは9色セット)。もちろん自分でも粘土を作ることができる(ネットに作り方が多数掲載)。良く伸び、光沢や透明感もあるため、花弁や葉なども自由に作れ、生け花代わりのゴージャスな花を作るのに特に適しているように思う。
 50~40年前にお付き合いしていたスーパーの店主の羽鳥安司さん(男性)という方に最近久しぶりに会った。すでに小売店経営から離れてかなり経つようだが、現在は山梨県の山中湖に本拠地を置き、コンスターチ粘土で実物以上に美しい生け花や盆栽、干支などの置物を創る先生をしている。会った際に2017年の干支の鳥の作品ももらった。
    写真のように、本物そっくりで「ビューティフル」「ワンダフル」と言える作品がどっさりあり、お花の大先生にも匹敵する技量の持ち主。かつて東京の千駄ヶ谷で30坪(現在のコンビニの大きさに匹敵。コンビニは1店平均50万円ほど)しかない店で1日180万円も売った小売りの匠だ。この匠的な研究熱心さがコンスターチ粘土の世界でも発揮され、多くのお弟子さんが集まっている。
    山中湖はもちろん東京でも講座を持っているくらい評判がよく、仏子でも希望者がいれば講座を開いもらっては・・・と思うほどだ。月2回ほどの授業料は1千円ほどのボランティアのような金額。市販のコンスターチ粘土は特許製品のようで、材料費が比較的かかる様子。
 (写真にはお弟子さん分も含む)


2016年12月7日水曜日

武蔵野の雑木林の紅葉は素晴らしい

 約300年前の元禄時代、川越の藩主の柳沢吉保がいまの川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町にまたがる新田開発を行い、この地域を「三富(さんとめ)地区」と呼んだ。三富農業の特徴は、一区画の幅72メートル、長さ675メートルの超長方形の畑を挟み、ケヤキなどで囲まれた屋敷と、人工の雑木林を両端に配置。雑木林の落ち葉を堆肥とする自然循環型の農業を目標にしてきた。いまでも屋敷内の林地に高さ1.5メートル、横10メートルもの落ち葉が積まれ、切り返しで堆肥化が図られている例を見る。
 <写真>整備
された林
上2枚 下1枚 晴天の日
中2枚 雪の日



  いまある武蔵野の雑木林の多くは、このような三富地区と同様に人工的に植えられたコナラやクヌギなどの林が中心と言われている。落ち葉きには多大な労力を要し、循環型農業は急速に消えつつある。一部の落ち葉を利用し、これに牛糞等を加えて堆肥化する例は結構残っているものの、雑木林の多くは荒れ放題になっている。ボランティアの助けを借り、落ち葉きをして整備された雑木林になっている例もあるが、ごく稀れである。
 
ここでは、紅葉で実に美しい雑木林の整備された例、荒れ放題の例を紹介した。雪景色の美しさも堪能して欲しい。
<写真右>地面は荒れ
 放題
<写真下>落ち葉によ
 る堆肥作り


2016年12月2日金曜日

「陽子ファーム」(所沢市)は有機の里・・・観光農園や宅配

平均的な農家の有機挑戦

(本文は原稿用紙に縦書きされたものを、横書きに直したため、数字の書き方が従来と異なります)


 所沢市のはずれに「城(しろ)」という地名がある。すぐ南は東京の清瀬市、東は新座市に接する。地名通り、ここには一一八〇年(治承四年)ころに築かれたという伝承の「滝の城」があった。「土豪が源頼朝の挙兵に呼応して築城したもの」とされるが、正確なことは分らない。平地に聳える高さ三十メートルほどの丘の上に築かれたもの。深い堀のようなものが渦巻状に本丸跡を囲み、小規模ながら守りの堅さが伺い知れる。 

この城址の頂上部から見下ろせば、所沢市の畑作地区が拡がり、あちこちとビニールハウスの集団が銀色に輝いている。今回紹介の「陽子ファーム」のハウスも含まれる。昔は稲作も結構行われていた地区という。柳瀬川という川に沿い、一〇キロも離れた狭山丘陵下の西武球場当たりまで田圃が伸びていた。夏場は田の水が蒸発し雲が発生、たびたび雷雨に見舞われたという。

「陽子ファーム」は、推察される通り主婦の池田容子さん(六十五才)が中心になって経営する農場である。いま女性の地位向上が叫ばれ、女性起業家も急増中だが、三十五年も前から市役所に勤めるご主人の佳弘さん(六十五才)に代わって、有機無農薬農業を進めてきた有名な方だ。久しぶりに奥さんに会って、頬に張とツヤがあるのに気付いた。奥さんに「三十代の肌ですね」と本心で申し上げた。有機農産物を日々賞味している賜物と思う。
<写真>ブルーベリー
を背景に 池田容子さん
「滝の城」は石垣が見られず、土塁で固めた城だが、陽子ファームもまた「通気性、透水性にすぐれ、腐食物の粘液で団粒構造になっている豊かな土」の上に築かれ堅牢な城のように感じる。環境にやさしく、食の安全第一の農法なので、多くのボランティアや顧客に支持され、野菜のこだわりを求める市民やレストランへの宅配、観光農業、体験教室、ジャムほかの加工や販売・・・と、多方面に進出し成果をあげてきた。

屋敷は、比較的車の往来が少ない街道に面している。街道沿いの長い塀の一部には観光案内のため「ブルーベリー狩り 無農薬有機栽培野菜・果物直売」とペンキで書かれた看板が出ている。
<写真>道路に面した観光農場の看板
現在の「陽子ファーム」は本人、ご主人、息子さん、パート実質三人(主に配送業務)の陣容で、実習生も〇~二人と補助に入ることも。耕地は普通畑一・八八ヘクタール(うち果樹〇・三七ヘクタール)。この面積は北海道を除く全国平均の一・八ヘクタールと一致する。作付面積は野菜では葉菜類七〇アール、根菜類五六アール、果菜類四一アール、果物ではブルーベリー三〇アール、他果実七アールである。

屋敷続きの農地にもハウス四棟があるが、ハウスの総棟数数は十一棟である。一棟の面積は小型が九七平方メートル、大型が二八八平方メートルといったところだ。ブルーべリーなどもハウスで栽培されている。

畑は車で二十分もかかるところにまで広がり、分散しているためや、無農薬のため雑草や害虫との闘いもよせねばならず、作業は楽ではない。

容子さんは昭和二十七年に城に近い所沢市中富の農家の長女として生まれた。高校時代はバレーやソフトボールもやる活発なお嬢さん(結婚後のママさんソフトボールの県大会で優勝)。二十三歳の昭和五十年にお見合いで結婚。ご主人はクリやサトイモを作る農家の後継ぎだったが市役所勤務・・・典型的な日曜百姓の一人だった。
「農業を手伝わせないから嫁に来てくれ、と言われ結婚したものの、実際は嘘だった」
奥さんの言葉に、隣に座るご主人も笑って応じる仲の良さ。高度成長時であれば、サラリーマンの奥さんは専業主婦になることが圧倒的に多かった。正直、多くの女性の例にならい、専業主婦にあこがれていたとしても不思議でない。

このため奥さんは結婚当初、着物の着付け教室を開いていた。しばらくして義父に「農業を手伝って欲しい」と云われ、少しずつ手伝うようになった。義父が高齢であれば、手伝いを求めるのは当然といえる。初めはいやいやながら手伝いだった。昭和五十一年に長女を出産、さらに二年経ち五十三年に長男が生まれた。ところが長男の尚弘さんは生まれて間もなく、軽いアトピー性皮膚炎になる(これは二年ほど続く)。

義母も病気勝ちだったので、「家族の健康のため何かできないか」と考え、有機農業に行き着いた。だが義父からは「無農薬では野菜を作れない」と反対もされた。これまで農作業で失敗を重ねてきたことも背景にあった。これを機に、奥さんは本気で農業に、そして有機栽培に取り組むこととなった。

自然循環型エコ農業の地
有機農業を奥さんが目指すようになった理由の一つが、生まれが「中富」だったこととも関係する。約三百年前の元禄時代、川越の藩主の柳沢吉保がいまの川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町にまたがる新田開発を行い、この地域を「三富(さんとめ)地区」と呼んだ。中富はその中核地区であった。三富農業の特徴は、一区画の幅七二   メートル、長さ六七五メートルの超長方形の畑を挟み、ケヤキなどで囲まれた屋敷と、人工の雑木林を両端に配置。雑木林の落ち葉を堆肥とする自然循環型の農業を目標にしてきた。いまでも屋敷内の林地に高さ一・五メートル、横十メートルもの落ち葉が積まれ、切り返しで堆肥化が図られている例を見る。奥さんは循環型農業を見て育ったのだ。

<写真>三富地区の雑木林(これは手入れのゆきとどいた例) 


JA系の「現代農業」(農文協刊)には、豊富に有機農業の記事が出ており熱心に読む一方、二年ほど経って日本有機農業研究会に加入し、勉強会にもしばしば参加した。有機農法といっても①減農薬・減化学肥料栽培、化学農薬・化学肥料の量を慣行農法の半分以下に持って行く特別栽培(各県で基準示す)、③三~二年以上の無化学肥料・農薬期間を経て国のJAS認定が可能になる有機栽培、④体に良くない硝酸態窒素を植物の体内に取り込むのを抑え、かつ省力にもつながる自然農法まである。

アトピーの原因物質は一部の食品も対象だが、実際はホコリとか化学物質が原因の場合も多い。またアトピーを治すには、緑黄色野菜が有効とされている。奥さんが目指したのはこうした野菜を中心に、果物も加えた完全な③有機栽培だった。しかし近年は堆肥作りも省力な方法を採り、雑草や作物を刈り取りそのまま放置、これで次なる雑草の発生を抑えるといった④自然農法に近い有機栽培になっているという。

堆肥の中心素材は落ち葉であり、落ち葉の給源のクヌギやコナラの雑木林は、当初約十四アールしかなかったが、友人から雑木林を借り、現在は一三〇アール(一町三反)まで拡大している。昭和五十八年ころからはボランティアの協力を得て、落ち葉きのイベントを始めた。一月に二週に分けて土・日曜を選んで二回来てもらい、赤飯、けんちん汁、野菜の煮物などで野外パーティ。好評で落ち葉きのボランティアが増え、林地の拡大が可能になった。なお翌年から、野菜の収穫体験の「芋煮会」も開催するようになった。

ところで堆肥を作る方法だが、当初は落ち葉にヌカやオカラなどを混ぜ完熟させるのが主流。オカラは県外の知人に分けてもらっていたが、近年は資源リサイクル法ができ、県外から入れることが困難に。ヌカも米作農家が減り、貴重品となり使えなくなった。

最近の堆肥の作り方は、落ち葉を集め林地に丸一年置いておくだけ。林地に住む菌が自然に発酵を助け、完熟堆肥になる。これを畑に運び三ケ月ほど置いてから散布する。「林から畑への移動が切り返しにつなり、別に切り返し作業はしてない」とのこと。

ヌカやオカラに代え最近は木材チップやもみ殻を使うが、落ち葉に混ぜ込むのでなく、畑に撒いて使えば済むそうだ。また輪作を採用。ソルゴーや小麦を植え、これを鋤き込んだり、雑草や畑に残った野菜も鋤き込む。

陽子ファームはこうした対応を三十五年前から実施してきた。完全に化学肥料ゼロ、化学農薬ゼロの農業である。普通ならば「有機農産物」の有資格者だが、JASの有機認定は受けていない。「一回、認定に必要な見積もりを頼んだとこ、百万円以上でびっくりした」とのこと。多数の圃場で、多数の品目、しかも野菜と果物を作っているとなると、それぞれの検査費用が加算される。加工も別建ての計算である。陽子ファームの経営形態では、楽に通常の三~四倍も認定費用がかかってしまう。

陽子ファームの場合は、こだわり志向の生活クラブの会員個人やレストランから、「素晴らしい。分けてくれないか」と頼まれ供給が進み、あえてJAS認定をとらなくても良かった面がある。

宅配や観光園に活路
日本における有機JAS認定圃場面積は全耕地面積の〇・二%と少ない(この他有機志向の圃場が〇・一五%)。有機の面で遅れているアメリカが〇・四%だが、進んでいるイタリア八・六%、ドイツ六・一%、フランス三・六%に遠く及ばない。

消費者の皆さんに理解を得て置きたいのは、日本は多雨で湿度も高く、病気や害虫が発生しやすい。このため便利な農薬を使いたくなる。年平均雨量を見ると、日本を一〇〇%としたときアメリカ四二%、イタリア三七%、ドイツ四一%、フランス五〇%といずれも半分以下なのだ。ヨーロッパ諸国は酪農や肉牛肥育も日本以上に盛んで、牛糞や鋤き込み用にもなる牧草、麦わらなども豊富なこともある。有機栽培をしやすい。

さらに有機栽培は慣行栽培に比べ労力がかかり、売価も高くなり消費が拡大しにくい面がある。農水省の野菜十一品目の調査によれば、慣行栽培の平均一・六八倍の価格になっている。陽子ファームで、ご主人や親戚の無料報酬の労力を折り込むと、ブルーベリー栽培では、確か慣行栽培の二倍前後の労力費になったと記憶している。

いずれにしても、平均規模の農家では費用対効果を考えてJAS認定を受けず、「隠れ有機栽培」を通すケースが多い。これは問題だ。検査技術も進んでいるので、行政も新しい制度、費用を打ち出すべきである。認定費用が安くなれば、有機栽培の普及や技術革新も進み価格も下がる。所得面でエリート層に当たる人だけでなく、広く普及する。

陽子ファームは、普及しにくい現状に手をこまねいていたわけではない。安全面でのこだわりを持つ生協に加入する市民、そしてレストラン等へ販路を広げた。それだけでなく、観光農園、収穫体験13教室、ジャム・漬物・菓子等の加工と、付加価値の取れる分野に進出してきた。

計画的にキューイフルーツを栽培し始めたのは昭和五十五年で、実際にキューイの観光農園を開いたのは昭和五十八年である(これは虫害が拡がり平成十六年には閉園)。筆者は九年前に、ブルーベリーのシーズンに初めて訪問した。開園期は六月下旬から八月上旬。ハウスの対象面積一四アール。入園料一人千円+消費税で、二〇〇グラムを顧客に差し上げる仕組み。入園管理の小屋には野菜や果物を混ぜたクッキーなども多数置いてあった。このときブルーベリー栽培の苦労を十分に聞かしてくれた。

ハウス内に虫が発生する頃には、カマキリの卵(泡状)を子供さんに集めてもらい、ハウスにカマキリを増やし、害虫を食べてもらうのだ。だが鳥のセキレイが増え、カマキリの卵がなかなか手にはいらない。このためピンセットで害虫を一匹、一匹取るのだ。市役所勤めだったご主人も出勤前のひととき作業を手伝い、親戚の二人にも手伝ってもらっていた。同時に畑の野菜の作業、宅配の発送準備もあるから、人手はいくらでも不足の様子だった。

手際の良い野菜宅配体制
屋敷内に宅配の作業場もある。ここでは  週四日間、各日二人のパートが働いている。段取りが良く、ヤマト運送と提携して注文主の住所、氏名、電話等を伝票に印字してもらう。これを発送日別の引き出しに保管。当日になると取り出し、奥さんの指示で必要品目を封入する。合わせて消費者の方とのコミュニケーションを充実させるため、A4一枚に農場の近況、出来不出来の状況、今回送付の商品名(七品~九品)などを記入した簡易チラシも入れる。すべてホームページを通じ、ネット上で注文が可能になっているのも特徴。信用第一で、間違いの起きないシステムが構築されているな・・・と感心した。
<写真>野菜の宅配の作業場
現在宅配ルートに乗っている顧客は埼玉、東京、千葉、神奈川などのレストランとの契約販売が二十ケ所、一般家庭が約九十~百ケ所、計百二十か所近い。業務筋には月四回、一般家庭は週一回から月一回届ける。家庭用のセットは税・送料込み三千円である。詳しくはホームページを見るのが早道だ。

季節の野菜を豊富に揃え、珍しさを付加するため、現在では西洋菜、中国菜、伝統菜まで入れ約百種を栽培している。最初に訪問したとき、「作物ごとの栽培面積を出してくれないか」と頼むと、奥さんは約一時間掛かったと思うが、野菜五十五品、果物八品についてアール単位の面積も書き出してくれた。奥さんの頭の中には絶えず圃場ごと、季節ごとの野菜・果物の様子が刻まれているのだな・・・とこれまた敬服したものだ。

ところで国の施策として平成二十三年に農業の六次産業化がスタートした。生産の一次、加工の二次、販売の三次の総ての数字を足すと六次。三つの一体運営で付加価値をつけて農家が売るが六次産業化である。奥さんはこれをはるかに遡る平成十七年(二〇〇五年)に「陽子ファーム」の名を採用し、ジャム加工に乗り出していた。夜なべに一人で、普通の鍋を使い果物や一部野菜を煮て、これを瓶に詰める作業をしてきたのだ。魂を注入しての美味、安全なジャム作りをしていた。当時はブルーベリージャム二〇〇グラムの丸瓶が税込み七百三十五円の売り値だった。

 私はできる限り正確な原価を割りだすことに努める一方、スーパーやネット上の売価も徹底して調べ、奥さんに「原価が七百二十三円かかっています。これでは全くの赤字ですよ」と申し上げた。このあと平成十九年にはやや小規模だが、陽子ファームは敷地内に小規模な加工施設を設けた。

賢く、かつセンスもある奥さんだった。しばらく過ぎて伺うと、そこにあったのはジャムの八角瓶だった。レッテのデザインに英文字も使われ、ネーミングもジャムでなく「コンフィチュール」となっていた(これはいまジャムにもどされている)。そして瓶の容量は一四〇グラム、価格は税込み八百六十四円に生まれ代わっていた。商品化のセンスには素晴らしいものがあり、だれも驚くはず。
<写真>各種のジャム
ジャムほかの瓶詰めのアイテムも豊富だ。ジャム類はブルーベリー、いちじく、キュウイ、ルバーブ、ストロベリー、かりん、夏みかん・・・があり、総て一四〇グラムが税込み八百六十四円に統一されている。この他トマトペースト二〇〇グラムも八百六十四円、ナスのオイル漬けは大瓶一千二百九十六円である。

宅配等の注文は「陽子ファーム」のフォームページ参照

電話での商品注文は 04-2944-2681

住所:所沢市城509

2016年11月2日水曜日

農協や農業者の読書欲・情報欲への疑問?

 JAマンや農業者の方は、今書店に並んでいる「文藝春秋」11月号(2016年)を読んだだろうか?これには皆さんが最も関心を持つ小泉進次郎氏(自民党農林部会長)と奥長兵衛の対談や「47人の知事にTPP賛否を問う」の調査記事も出ている。

問題にしたいのは、TPPがらみの内容ではない。皆さんが記事を読んだか読まないかである。読書力の問題である。本ブログに昨年、「家の光」時代の先輩である鈴木俊彦氏の「激動の時代と日本農業の活路」について簡潔に内容を紹介したつもりだ。実物を読むのが「大変」と思う方に、アプローチして欲しかった。だが結果はみじめなものだった。すでに掲載後1年10ケ月になるが、アクセスは49人に過ぎない。

本ブログでもアクセスが最大のものは5,000を超える・・・下表参照。

アクセス数上位紹介  2016年11月1日現在

タイトル
アクセス
掲載年月
農産物直売所―売れるレイアウトと陳列
,551
2011/ 1
「食の駅」所沢店はワイドな品揃え
,096
2015/ 2
農産加工品の売価、値入は
,972
2011/11
埼玉農業大賞―桂ファームに学ぶ
,561
2011/10
農産物直売所―売れる陳列「マルシェ」
,516
2011/10
農産物の原価計算―皆さん苦手
,503
2010/12
「ふれあい大樹」-身障者の直売所
,436
2011/ 4
農産物直売所―損益の指標
,371
2011/ 2

   上位のものも2010年末のブログのスタートから見れば6年近くで到達した数字で、誇れるものではないし、いずれも経営の実務か、事例的なものが主である。農業の未来像や農政の動向についてのものにはアクセスが極めて少ない。農政や経営の将来に不満を示しながら、それを活字で正確に知る努力を欠いているのが残念でならない。

ついでに述べると、JAの展開する直売所に対する顧客の支持も、すこぶる低いと見るべきである。群馬県の農業関連企業が展開する埼玉県所沢市の「食の駅」については、当方が紹介してきた直売所では最も後である。にもかかわらずアクセス数は3,096である。この店に近いJA直売所については数か月前に紹介したのに、未だに315でジャスト1/10である。その他JA系の直売所も6年前から順次紹介してきたが、210、124、175、266、334といったアクセス数である。

直売所記事へのアクセスは、「噂で知ったので、確認してから行ってみたい」と思う消費者である。つまりJA直売所は消費者にそれだけ「関心」を持たれていないといえる。ネット上では当方が住む埼玉に近い、遠いいには関係ない(周辺の消費者の密度はある程度関係)。店の鮮度、価格、品揃え、接客・・・等々に魅力がなく、消費者が関心を持って見ていない証である。この反省がJAや関係農業者にあるのだろうか。なければかつてのJAコープ店舗のように衰退し、あと5年もすれば1/3は消えるのではないか。

補助金などの「おんぶにだっこ」のJAや農家の多くの人の体質では、消費者の支持は得られない。文春で小泉氏は「生産者を守る最後の砦は消費者である」として、ITも駆使し生産性を高めるとともに、安さと高品質と2極化している消費者のうちの「意識ある消費者」(後者)と結び付加価値を実現していくべきだ・・・との見方を示している。

消費者2極化の研究については、「安さだけが総てでない」の当方ブログ(主婦の食のライフスタイル分析)も読んで欲しいが、アクセス数はパットしない。直売所でもまだまだ「市場に出せない等外品を安く売るのだ」という考えを持つケースが多い。「食の駅」所沢の近くのJA直売所もその典型例である。

すでにブログで書いてきたが、直売所の商圏はスーパーの倍、3倍も広く、遠方から「鮮度、個性ある品質、安全などにこだわりを持つクオリティ型のQ型顧客を中心に集客している」のが実態。安さを求めるプライス型=P型顧客は、野菜だけ安くても得にならず来ない。コンビニエンス型=C型の顧客は近くを通れば寄る程度。多様な品揃えを求めるバラエティ型=V型は品揃えが青果に偏った直売所は敬遠し、大手スーパーに行ってしまう。そしてQ型は家族の健康、おいしさ、食の安全、時に便利さを選択し、賢い消費者といえる存在である。

・・・こうした食のライフスタイルもしっかり活字でも研究し、上滑りがないようにしないと失敗する。(小泉氏の提言の問題点はこのあとに続く・・・別のブログで紹介)




2016年6月9日木曜日

ロードサイドのドトールコーヒーはコンビニエンス




喫煙にトイレに便利!割引で1杯200円!


私はドトールコーヒーの大フアンである。財布の中には今現在郊外のエッソ・ガソリンスタンド内にある3店の20円、30円、50円の割引券11枚が入っている。毎日1.3店平均は寄るので割引券は貯まりこそすれ減ることはない。フランチャイズのため3店それぞれ割引が違い、訪ねた店の券が無い事もある。こんな時も、馴染みの店員さんがいれば、まず割引券のシートを出してくれ、1枚のみカット・・・で割引きOKとなる。

Sサイズのブレンドコーヒー220円が、時に170円、190円、(主に)200円と安く飲めるのも魅力である。このため帰りにもう一店に寄っても400円。

毎日、車を使い顧問先の仕事をこなすので、その行き帰りにあるガソリンスタンド付帯のドトールは私にとってコンビニエンスな存在。1店は毎朝仕事前に必ず寄る。コーヒーの味にうるさいほうではないが、ドトールは私好みの平均的な味を維持していて「まずい」と感じたことはない。

味よりも何よりも、早朝から開いており、最大の利点は密閉度が完全な喫煙ルームがあり、安んじてタバコが吸え、トイレも済ますことができるコンビニエンス性・・・これこそが、私にとって最大の魅力。このため銀座など都内に出たときも必ずドトールに立ち寄る。銀座などは街区ごとにドトールがある。

 
































黒地に白の英文字で、Oの字だけ黄色のロゴは、私の感覚からするとコーヒーショップ中、最もハイカラだと思っている。遠くからでも風景に埋没せず、識別もできる。

ちなみに、ガソリンスタンド内の標準店舗を紹介すると、営業時間はAM6時~PM12時。駐車場はせいぜい4~5台と少ない。建物は6×5=30坪ほど。接客フロアー6×4=24坪、うち4坪が厨房+接客カウンター。某店の場合、禁煙席38席、喫煙席13席。ケーキやサンドイッチを入れる冷ケース2尺幅3段、パックコーヒーなどの販売台が3尺幅3台、各種ボトル飲料をいれる角型冷ケース1.5尺幅。

駐車場は思いのほか少ない。近隣住宅地の人が徒歩で訪ねるケースも多いようで、帰りにAM9~10時くらいに寄ると、お隣さん3~5人でよもやま話をしている例にもぶつかる。
(メニューについては、またの機会に)