2017年3月25日土曜日

セリ取引の乱高下に泣く(昭和30年代後半)

農産物流通の昭和後半史と私-①脱サラへの道


今後の予定
日本のラルフネーダー竹内直氏と出会う
アメリカの流通視察で得たもの
青果店とのお付合いとミニFCの実践
VCのミニ・スーパーと共に10年
大規模SMとコンビニの隆盛時代に

1.農産物流通問題に引かれ脱サラ
 私がJA系の社法人「家の光協会」編集部記者を辞めたのは昭和40年、29才の時である。雑誌「家の光」はこの時、月180万部と日本一の発行部数を誇った。農村エリート向けの「地上」も発行していた。家の光協会勤務はわずか6年で、うち3年が家の光編集部、2年が地上編集部、残り1年は両者兼務であった。いずれにしても「家の光」が最ピークの年に、農産物流通コンサルタントの肩書で独立した。

 編集部の最後2年間に、1年目は「畑から台所」(昭和38年度)、2年目は「流通パトロール」(39年度)と農産物流通の連載記事を担当した。自由にテーマを選び24回連載をしたことになる。野菜を中心に農産物の暴騰、暴落がくり返され、農業者だけでなく、都会の消費者もまた泣かされる日々が続き、農産物の流通がクローズアップされていた。だからこそ連載記事を書き、挙句の果て「流通かぶれ」になり独立してしまった。

 当時の農産物流通の状況を知る手がかりが残っている・・・昭和41年6月8日の51回国会・農林水産委員会の討論内容である。

 児玉(末男)委員 「行政管理庁が5月27日に出した生鮮食料品の生産および流通に関する行政監察の結果によると、昭和35年から40年にかけて、消費者物価の値上がりについては、特に生鮮食料品が激しく、中でも野菜は97%の値上がりを示している」。

「一般の消費者物価は昭和35年に比し40年は35%の値上がり、うち生鮮品は平均56%値上がり、そして野菜は約倍(97%)の値上がり」という数字あげ、輸送費中心の質問をしている。

 小林(誠)政府委員 「野菜の小売価格は5年間で96%の値上がりですが、卸価格も95%ほど値上がり。農家の手取りと言える庭先価格も昭和39年までに約90%アップ」と説明。また値上がりの原因として、「以前と違う、単価の高い端境期の出荷が増えた」「野菜は非常に人手を要するが、都市への移動で人手不足」「流通段階でも非常に人手がかかる」と説明。また「10アール当たりの投下労働時間はアメリカに比し、露地栽培でだいたい2倍、施設栽培だと3倍、4倍」と指摘。

児玉(末男)委員 「中部管区行政監察局の追跡調査についての新聞報道では、(野菜?)小売価格を100%とすると、生産者手取りは22.6%、小売マージンが32.7%(時に66.2%?)。そして、それから中間マージンが全体が77.4%になっている。生産者価格と小売価格との格差が2~5倍にもなる」と指摘。(この数値はどこかで、メモの間違いがあると思うが、小売マージンの平均32.7%(ロスを見込んだ数字)の方は、現在時点でも通じる妥当なもの)。

2.連動していた野菜と所得の上昇
  当時、暴騰・暴落の代表格が野菜であったことは、今も変わらないように思うが、その価額が5年で1.97倍であったのは、現在と比べ「相当ひどいもの」である。総務庁「家計費調査」によれば、オール野菜の平均単価は平成21年を1とした場合、丸5年後の26年は1.10倍(38.54/35.02円-100g当たり)である。現在も上昇傾向にあるものの、当時に比べれば1/10の上昇幅に過ぎない。

当時、すでに「高度成長」の言葉が使われていたものの、ほんの入口で大卒の私の初任給は昭和34年当時12,000円(国家公務員6級職10,500円)、辞めた40年で2,5000円程度と記憶している。5年換算にすれば野菜の2倍と同レベル。野菜の上昇は「所得の上昇に連動していた」(さらには生産者の手取り増にも)ということになる。逆に他の農産物の価格はサラリーマンの所得向上に追いついていなかったとも言える。

上記、委員会でも暴騰・暴落がくり返される原因について、「生鮮品は腐りやすく、産地や市場に貯蔵機能がないまま市場販売すれば乱高下を産む」「産地がバラバラに生産・出荷していて、出荷量の全体が見えない。このため出荷量が消費量とバランスせず乱高下が起きる」との指摘がされている。これを是正するため、昭和41年に「野菜生産出荷安定法」が施行され、品目別の指定産地が決められ、「指定産地は指定消費地に生産量の1/2を出荷することにより、生産補給交付金を受けることができる」ようになった。

3.セリ取引へのメスはまだだった
 ところで当時の問題点の一つは乱高下の激しさにあった。消費者は高騰に、生産者は低落に泣かされ、そのたびに新聞に大きく報道された。当時の正確な数字がないが、中央卸売市場の取引の90%以上がセリ取引であったはず。競って商品を得ようとする場合、入荷量が20%少なければ、1.5倍の値がついてもおかしくない。逆に入荷量が20%余り気味なら、競争する必要はなくセリは成立しにくく、半値に下落しても不思議でない。だがこの時の農林水産委員会では「セリが乱高下を助長するもの」といった、セリ取引中心の市場体質について触れられておらず、ここに問題が残されていた。

 そして、どちらかと言えば、「中間流通コストが高いが、どうするか」の視点が中心だった。つまり包装手段、輸送手段、産地や消費地の貯蔵施設、流通に関わる人の人件費高騰といった点だ。このため輸送については41年の委員会では、鉄道輸送が中心的に議論されたが、トッラク輸送にまだ言及されていない。貨車に乗せ、貨物駅でトラックに乗せ換えて市場に運ぶ。このため時間も手間もかかり、鮮度も低下。迅速な市場相場への対応も困難・・・という不合理性にもセリ取引同様に、気付いていなかったように思う。また、中間流通のコストカットや高鮮度確保のための「産地直取引」という概念についても、まったく言及されていなかった。

鉄道輸送中心の議論は、当時まだ高速道路が全く開通していなかったことと関係する。高速道路が確立すれば畑から市場への直送体制ができる。昭和31年「ワトキンス」という調査団が来て、「工業国でありながら、日本は道路網の完備をまったく無視している」とし、高速道路公団が同31年に発足、実際に初の高速である名神高速道路(75km)が開通したのが昭和38年である。

4.興味は都市のスーパーや消費動向
   私は消費地の東京神田の生まれながら、農工大学農学部卒である。生産から消費を同時に体験できる立場にあった。このため「暴騰・暴落に泣く生産者と消費者」の現実に、興味を持って当然である。2つの連載を通じ、群馬県のキャベツの大産地「嬬恋村」や、当時すで6次産業化を達成していたポンジュースの愛媛青果連、北海道の中札内農協、静岡の庵原農協などを訪ねた。生鮮品の場合、加工というクッションがないと、全量出荷し価格の乱高下を招くと考えたからだ。また食肉については、相対取引の新潟県内の枝肉センターを訪ねた。セリ万能時代に新風を吹き込むと見たからである。

だが興味は都市部の動きだった。当時すでにダイエー、ヨーカドー、ジャスコ、ユニーなどのビッグ・ストアのチェーンが全国展開し、関東では西友ストア、東急、京王、小田急、東武など電鉄系のスーパーが多店舗展開。私は農業記者の立場で、東急ストア本部や「いなげや」、当時あった「しずおかや」、高級スーパーの青山の「紀ノ国屋」、対面販売だが、強力な生鮮の販売力を誇る四谷3丁目の「丸正本店」などの本部を訪ね、主に青果の担当者に会い、仕入れや販売の実態を農家の人に知らしめるために報道した。消費者について理解を深めるため、消費科学連合会の三巻秋子氏との面談記事も書いた。

当時の消費実態はどうか。独立時の昭和40年4月に名刺代わりに「農業革命への提言」なる小冊子を配った。冊子では、「先進国では澱粉系(麦、米等)、蛋白系(肉、牛乳。乳製品、鶏卵等)、ビタミン系(野菜、果物)の食品が1対1対1の割合で消費されいるが、日本は澱粉系52.0%、蛋白系19.5%、ビタミン系17.5%、その他11.0%で3対1対1に近い。例えば蛋白系の肉の年間消費量は1人9kg(昭和39年)に対し、西ドイツは約7倍の61kg、イギリス約8.5倍の90Kg、鶏卵も2倍近い水準。ビタミン系の野菜は日本の場合、1人年97kgの消費で先進のトップグルーに近く、アメリカは96kgだった。果物は30kgでアメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスの約2/3」としている。ただし野菜はダイコン、ハクサイなどの澱粉系が多く、ビタミン系の消費急増もあって、価格が急騰したように見られる。鶏卵はこの時期すでに大規模化が進み、「物価の優等生」と言われ続けてきた。

   小冊子では、「蛋白・ビタミン農政に転換することが、物価問題の解決につながる。それには米麦中心の米価審議会を止め、農業総合構造・物価審議会に換え、需給バランスを政治的に作り直すべきだ」と提言している。大海に投げた一石に過ぎず効力なし。米麦中心農政は今日まで続いてきたといえる。

   時代は飛んで、最近(平成29年3月28日)になり、JA全農は事業計画の基礎になる改革方針を発表した。これによれば、農産物を小売りに直接販売する方式について、
①米の直売比率は全量の4割だが、これを平成36年までに9割にする。
②野菜や果物は現在直売比率3割を36年に5割強にする。
・・・生協の共同購入が進んだり、農産物直売所が登場したりで、消費地ー産地直結の取引も、上記のように米で4割、野菜・果物で3割と伸びてきたのだが、昭和40年時点では、これらはゼロに近かったのである。

2017年2月21日火曜日

新田次郎さんと福井県の三方五湖他の旅

1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの
  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月三日

「黒き衣」とは、2日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。

 下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。

2017年1月17日火曜日

昔の小売りの匠が今はコンスターチ粘土の匠に!

    皆さん、コンスターチ粘土を知っていますか?トウモロコシ粉を原料にした粘土で、子供さんが仮に口に入れても無害。その上、指先の暖かさで自由に伸ばせ、色も2色以上を混ぜ合わせて自由に出せる(市販のものは9色セット)。もちろん自分でも粘土を作ることができる(ネットに作り方が多数掲載)。良く伸び、光沢や透明感もあるため、花弁や葉なども自由に作れ、生け花代わりのゴージャスな花を作るのに特に適しているように思う。
 50~40年前にお付き合いしていたスーパーの店主の羽鳥安司さん(男性)という方に最近久しぶりに会った。すでに小売店経営から離れてかなり経つようだが、現在は山梨県の山中湖に本拠地を置き、コンスターチ粘土で実物以上に美しい生け花や盆栽、干支などの置物を創る先生をしている。会った際に2017年の干支の鳥の作品ももらった。
    写真のように、本物そっくりで「ビューティフル」「ワンダフル」と言える作品がどっさりあり、お花の大先生にも匹敵する技量の持ち主。かつて東京の千駄ヶ谷で30坪(現在のコンビニの大きさに匹敵。コンビニは1店平均50万円ほど)しかない店で1日180万円も売った小売りの匠だ。この匠的な研究熱心さがコンスターチ粘土の世界でも発揮され、多くのお弟子さんが集まっている。
    山中湖はもちろん東京でも講座を持っているくらい評判がよく、仏子でも希望者がいれば講座を開いもらっては・・・と思うほどだ。月2回ほどの授業料は1千円ほどのボランティアのような金額。市販のコンスターチ粘土は特許製品のようで、材料費が比較的かかる様子。
 (写真にはお弟子さん分も含む)


2016年12月7日水曜日

武蔵野の雑木林の紅葉は素晴らしい

 約300年前の元禄時代、川越の藩主の柳沢吉保がいまの川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町にまたがる新田開発を行い、この地域を「三富(さんとめ)地区」と呼んだ。三富農業の特徴は、一区画の幅72メートル、長さ675メートルの超長方形の畑を挟み、ケヤキなどで囲まれた屋敷と、人工の雑木林を両端に配置。雑木林の落ち葉を堆肥とする自然循環型の農業を目標にしてきた。いまでも屋敷内の林地に高さ1.5メートル、横10メートルもの落ち葉が積まれ、切り返しで堆肥化が図られている例を見る。
 <写真>整備
された林
上2枚 下1枚 晴天の日
中2枚 雪の日



  いまある武蔵野の雑木林の多くは、このような三富地区と同様に人工的に植えられたコナラやクヌギなどの林が中心と言われている。落ち葉きには多大な労力を要し、循環型農業は急速に消えつつある。一部の落ち葉を利用し、これに牛糞等を加えて堆肥化する例は結構残っているものの、雑木林の多くは荒れ放題になっている。ボランティアの助けを借り、落ち葉きをして整備された雑木林になっている例もあるが、ごく稀れである。
 
ここでは、紅葉で実に美しい雑木林の整備された例、荒れ放題の例を紹介した。雪景色の美しさも堪能して欲しい。
<写真右>地面は荒れ
 放題
<写真下>落ち葉によ
 る堆肥作り


2016年12月2日金曜日

「陽子ファーム」(所沢市)は有機の里・・・観光農園や宅配

平均的な農家の有機挑戦

(本文は原稿用紙に縦書きされたものを、横書きに直したため、数字の書き方が従来と異なります)


 所沢市のはずれに「城(しろ)」という地名がある。すぐ南は東京の清瀬市、東は新座市に接する。地名通り、ここには一一八〇年(治承四年)ころに築かれたという伝承の「滝の城」があった。「土豪が源頼朝の挙兵に呼応して築城したもの」とされるが、正確なことは分らない。平地に聳える高さ三十メートルほどの丘の上に築かれたもの。深い堀のようなものが渦巻状に本丸跡を囲み、小規模ながら守りの堅さが伺い知れる。 

この城址の頂上部から見下ろせば、所沢市の畑作地区が拡がり、あちこちとビニールハウスの集団が銀色に輝いている。今回紹介の「陽子ファーム」のハウスも含まれる。昔は稲作も結構行われていた地区という。柳瀬川という川に沿い、一〇キロも離れた狭山丘陵下の西武球場当たりまで田圃が伸びていた。夏場は田の水が蒸発し雲が発生、たびたび雷雨に見舞われたという。

「陽子ファーム」は、推察される通り主婦の池田容子さん(六十五才)が中心になって経営する農場である。いま女性の地位向上が叫ばれ、女性起業家も急増中だが、三十五年も前から市役所に勤めるご主人の佳弘さん(六十五才)に代わって、有機無農薬農業を進めてきた有名な方だ。久しぶりに奥さんに会って、頬に張とツヤがあるのに気付いた。奥さんに「三十代の肌ですね」と本心で申し上げた。有機農産物を日々賞味している賜物と思う。
<写真>ブルーベリー
を背景に 池田容子さん
「滝の城」は石垣が見られず、土塁で固めた城だが、陽子ファームもまた「通気性、透水性にすぐれ、腐食物の粘液で団粒構造になっている豊かな土」の上に築かれ堅牢な城のように感じる。環境にやさしく、食の安全第一の農法なので、多くのボランティアや顧客に支持され、野菜のこだわりを求める市民やレストランへの宅配、観光農業、体験教室、ジャムほかの加工や販売・・・と、多方面に進出し成果をあげてきた。

屋敷は、比較的車の往来が少ない街道に面している。街道沿いの長い塀の一部には観光案内のため「ブルーベリー狩り 無農薬有機栽培野菜・果物直売」とペンキで書かれた看板が出ている。
<写真>道路に面した観光農場の看板
現在の「陽子ファーム」は本人、ご主人、息子さん、パート実質三人(主に配送業務)の陣容で、実習生も〇~二人と補助に入ることも。耕地は普通畑一・八八ヘクタール(うち果樹〇・三七ヘクタール)。この面積は北海道を除く全国平均の一・八ヘクタールと一致する。作付面積は野菜では葉菜類七〇アール、根菜類五六アール、果菜類四一アール、果物ではブルーベリー三〇アール、他果実七アールである。

屋敷続きの農地にもハウス四棟があるが、ハウスの総棟数数は十一棟である。一棟の面積は小型が九七平方メートル、大型が二八八平方メートルといったところだ。ブルーべリーなどもハウスで栽培されている。

畑は車で二十分もかかるところにまで広がり、分散しているためや、無農薬のため雑草や害虫との闘いもよせねばならず、作業は楽ではない。

容子さんは昭和二十七年に城に近い所沢市中富の農家の長女として生まれた。高校時代はバレーやソフトボールもやる活発なお嬢さん(結婚後のママさんソフトボールの県大会で優勝)。二十三歳の昭和五十年にお見合いで結婚。ご主人はクリやサトイモを作る農家の後継ぎだったが市役所勤務・・・典型的な日曜百姓の一人だった。
「農業を手伝わせないから嫁に来てくれ、と言われ結婚したものの、実際は嘘だった」
奥さんの言葉に、隣に座るご主人も笑って応じる仲の良さ。高度成長時であれば、サラリーマンの奥さんは専業主婦になることが圧倒的に多かった。正直、多くの女性の例にならい、専業主婦にあこがれていたとしても不思議でない。

このため奥さんは結婚当初、着物の着付け教室を開いていた。しばらくして義父に「農業を手伝って欲しい」と云われ、少しずつ手伝うようになった。義父が高齢であれば、手伝いを求めるのは当然といえる。初めはいやいやながら手伝いだった。昭和五十一年に長女を出産、さらに二年経ち五十三年に長男が生まれた。ところが長男の尚弘さんは生まれて間もなく、軽いアトピー性皮膚炎になる(これは二年ほど続く)。

義母も病気勝ちだったので、「家族の健康のため何かできないか」と考え、有機農業に行き着いた。だが義父からは「無農薬では野菜を作れない」と反対もされた。これまで農作業で失敗を重ねてきたことも背景にあった。これを機に、奥さんは本気で農業に、そして有機栽培に取り組むこととなった。

自然循環型エコ農業の地
有機農業を奥さんが目指すようになった理由の一つが、生まれが「中富」だったこととも関係する。約三百年前の元禄時代、川越の藩主の柳沢吉保がいまの川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町にまたがる新田開発を行い、この地域を「三富(さんとめ)地区」と呼んだ。中富はその中核地区であった。三富農業の特徴は、一区画の幅七二   メートル、長さ六七五メートルの超長方形の畑を挟み、ケヤキなどで囲まれた屋敷と、人工の雑木林を両端に配置。雑木林の落ち葉を堆肥とする自然循環型の農業を目標にしてきた。いまでも屋敷内の林地に高さ一・五メートル、横十メートルもの落ち葉が積まれ、切り返しで堆肥化が図られている例を見る。奥さんは循環型農業を見て育ったのだ。

<写真>三富地区の雑木林(これは手入れのゆきとどいた例) 


JA系の「現代農業」(農文協刊)には、豊富に有機農業の記事が出ており熱心に読む一方、二年ほど経って日本有機農業研究会に加入し、勉強会にもしばしば参加した。有機農法といっても①減農薬・減化学肥料栽培、化学農薬・化学肥料の量を慣行農法の半分以下に持って行く特別栽培(各県で基準示す)、③三~二年以上の無化学肥料・農薬期間を経て国のJAS認定が可能になる有機栽培、④体に良くない硝酸態窒素を植物の体内に取り込むのを抑え、かつ省力にもつながる自然農法まである。

アトピーの原因物質は一部の食品も対象だが、実際はホコリとか化学物質が原因の場合も多い。またアトピーを治すには、緑黄色野菜が有効とされている。奥さんが目指したのはこうした野菜を中心に、果物も加えた完全な③有機栽培だった。しかし近年は堆肥作りも省力な方法を採り、雑草や作物を刈り取りそのまま放置、これで次なる雑草の発生を抑えるといった④自然農法に近い有機栽培になっているという。

堆肥の中心素材は落ち葉であり、落ち葉の給源のクヌギやコナラの雑木林は、当初約十四アールしかなかったが、友人から雑木林を借り、現在は一三〇アール(一町三反)まで拡大している。昭和五十八年ころからはボランティアの協力を得て、落ち葉きのイベントを始めた。一月に二週に分けて土・日曜を選んで二回来てもらい、赤飯、けんちん汁、野菜の煮物などで野外パーティ。好評で落ち葉きのボランティアが増え、林地の拡大が可能になった。なお翌年から、野菜の収穫体験の「芋煮会」も開催するようになった。

ところで堆肥を作る方法だが、当初は落ち葉にヌカやオカラなどを混ぜ完熟させるのが主流。オカラは県外の知人に分けてもらっていたが、近年は資源リサイクル法ができ、県外から入れることが困難に。ヌカも米作農家が減り、貴重品となり使えなくなった。

最近の堆肥の作り方は、落ち葉を集め林地に丸一年置いておくだけ。林地に住む菌が自然に発酵を助け、完熟堆肥になる。これを畑に運び三ケ月ほど置いてから散布する。「林から畑への移動が切り返しにつなり、別に切り返し作業はしてない」とのこと。

ヌカやオカラに代え最近は木材チップやもみ殻を使うが、落ち葉に混ぜ込むのでなく、畑に撒いて使えば済むそうだ。また輪作を採用。ソルゴーや小麦を植え、これを鋤き込んだり、雑草や畑に残った野菜も鋤き込む。

陽子ファームはこうした対応を三十五年前から実施してきた。完全に化学肥料ゼロ、化学農薬ゼロの農業である。普通ならば「有機農産物」の有資格者だが、JASの有機認定は受けていない。「一回、認定に必要な見積もりを頼んだとこ、百万円以上でびっくりした」とのこと。多数の圃場で、多数の品目、しかも野菜と果物を作っているとなると、それぞれの検査費用が加算される。加工も別建ての計算である。陽子ファームの経営形態では、楽に通常の三~四倍も認定費用がかかってしまう。

陽子ファームの場合は、こだわり志向の生活クラブの会員個人やレストランから、「素晴らしい。分けてくれないか」と頼まれ供給が進み、あえてJAS認定をとらなくても良かった面がある。

宅配や観光園に活路
日本における有機JAS認定圃場面積は全耕地面積の〇・二%と少ない(この他有機志向の圃場が〇・一五%)。有機の面で遅れているアメリカが〇・四%だが、進んでいるイタリア八・六%、ドイツ六・一%、フランス三・六%に遠く及ばない。

消費者の皆さんに理解を得て置きたいのは、日本は多雨で湿度も高く、病気や害虫が発生しやすい。このため便利な農薬を使いたくなる。年平均雨量を見ると、日本を一〇〇%としたときアメリカ四二%、イタリア三七%、ドイツ四一%、フランス五〇%といずれも半分以下なのだ。ヨーロッパ諸国は酪農や肉牛肥育も日本以上に盛んで、牛糞や鋤き込み用にもなる牧草、麦わらなども豊富なこともある。有機栽培をしやすい。

さらに有機栽培は慣行栽培に比べ労力がかかり、売価も高くなり消費が拡大しにくい面がある。農水省の野菜十一品目の調査によれば、慣行栽培の平均一・六八倍の価格になっている。陽子ファームで、ご主人や親戚の無料報酬の労力を折り込むと、ブルーベリー栽培では、確か慣行栽培の二倍前後の労力費になったと記憶している。

いずれにしても、平均規模の農家では費用対効果を考えてJAS認定を受けず、「隠れ有機栽培」を通すケースが多い。これは問題だ。検査技術も進んでいるので、行政も新しい制度、費用を打ち出すべきである。認定費用が安くなれば、有機栽培の普及や技術革新も進み価格も下がる。所得面でエリート層に当たる人だけでなく、広く普及する。

陽子ファームは、普及しにくい現状に手をこまねいていたわけではない。安全面でのこだわりを持つ生協に加入する市民、そしてレストラン等へ販路を広げた。それだけでなく、観光農園、収穫体験13教室、ジャム・漬物・菓子等の加工と、付加価値の取れる分野に進出してきた。

計画的にキューイフルーツを栽培し始めたのは昭和五十五年で、実際にキューイの観光農園を開いたのは昭和五十八年である(これは虫害が拡がり平成十六年には閉園)。筆者は九年前に、ブルーベリーのシーズンに初めて訪問した。開園期は六月下旬から八月上旬。ハウスの対象面積一四アール。入園料一人千円+消費税で、二〇〇グラムを顧客に差し上げる仕組み。入園管理の小屋には野菜や果物を混ぜたクッキーなども多数置いてあった。このときブルーベリー栽培の苦労を十分に聞かしてくれた。

ハウス内に虫が発生する頃には、カマキリの卵(泡状)を子供さんに集めてもらい、ハウスにカマキリを増やし、害虫を食べてもらうのだ。だが鳥のセキレイが増え、カマキリの卵がなかなか手にはいらない。このためピンセットで害虫を一匹、一匹取るのだ。市役所勤めだったご主人も出勤前のひととき作業を手伝い、親戚の二人にも手伝ってもらっていた。同時に畑の野菜の作業、宅配の発送準備もあるから、人手はいくらでも不足の様子だった。

手際の良い野菜宅配体制
屋敷内に宅配の作業場もある。ここでは  週四日間、各日二人のパートが働いている。段取りが良く、ヤマト運送と提携して注文主の住所、氏名、電話等を伝票に印字してもらう。これを発送日別の引き出しに保管。当日になると取り出し、奥さんの指示で必要品目を封入する。合わせて消費者の方とのコミュニケーションを充実させるため、A4一枚に農場の近況、出来不出来の状況、今回送付の商品名(七品~九品)などを記入した簡易チラシも入れる。すべてホームページを通じ、ネット上で注文が可能になっているのも特徴。信用第一で、間違いの起きないシステムが構築されているな・・・と感心した。
<写真>野菜の宅配の作業場
現在宅配ルートに乗っている顧客は埼玉、東京、千葉、神奈川などのレストランとの契約販売が二十ケ所、一般家庭が約九十~百ケ所、計百二十か所近い。業務筋には月四回、一般家庭は週一回から月一回届ける。家庭用のセットは税・送料込み三千円である。詳しくはホームページを見るのが早道だ。

季節の野菜を豊富に揃え、珍しさを付加するため、現在では西洋菜、中国菜、伝統菜まで入れ約百種を栽培している。最初に訪問したとき、「作物ごとの栽培面積を出してくれないか」と頼むと、奥さんは約一時間掛かったと思うが、野菜五十五品、果物八品についてアール単位の面積も書き出してくれた。奥さんの頭の中には絶えず圃場ごと、季節ごとの野菜・果物の様子が刻まれているのだな・・・とこれまた敬服したものだ。

ところで国の施策として平成二十三年に農業の六次産業化がスタートした。生産の一次、加工の二次、販売の三次の総ての数字を足すと六次。三つの一体運営で付加価値をつけて農家が売るが六次産業化である。奥さんはこれをはるかに遡る平成十七年(二〇〇五年)に「陽子ファーム」の名を採用し、ジャム加工に乗り出していた。夜なべに一人で、普通の鍋を使い果物や一部野菜を煮て、これを瓶に詰める作業をしてきたのだ。魂を注入しての美味、安全なジャム作りをしていた。当時はブルーベリージャム二〇〇グラムの丸瓶が税込み七百三十五円の売り値だった。

 私はできる限り正確な原価を割りだすことに努める一方、スーパーやネット上の売価も徹底して調べ、奥さんに「原価が七百二十三円かかっています。これでは全くの赤字ですよ」と申し上げた。このあと平成十九年にはやや小規模だが、陽子ファームは敷地内に小規模な加工施設を設けた。

賢く、かつセンスもある奥さんだった。しばらく過ぎて伺うと、そこにあったのはジャムの八角瓶だった。レッテのデザインに英文字も使われ、ネーミングもジャムでなく「コンフィチュール」となっていた(これはいまジャムにもどされている)。そして瓶の容量は一四〇グラム、価格は税込み八百六十四円に生まれ代わっていた。商品化のセンスには素晴らしいものがあり、だれも驚くはず。
<写真>各種のジャム
ジャムほかの瓶詰めのアイテムも豊富だ。ジャム類はブルーベリー、いちじく、キュウイ、ルバーブ、ストロベリー、かりん、夏みかん・・・があり、総て一四〇グラムが税込み八百六十四円に統一されている。この他トマトペースト二〇〇グラムも八百六十四円、ナスのオイル漬けは大瓶一千二百九十六円である。

宅配等の注文は「陽子ファーム」のフォームページ参照

電話での商品注文は 04-2944-2681

住所:所沢市城509

2016年11月2日水曜日

農協や農業者の読書欲・情報欲への疑問?

 JAマンや農業者の方は、今書店に並んでいる「文藝春秋」11月号(2016年)を読んだだろうか?これには皆さんが最も関心を持つ小泉進次郎氏(自民党農林部会長)と奥長兵衛の対談や「47人の知事にTPP賛否を問う」の調査記事も出ている。

問題にしたいのは、TPPがらみの内容ではない。皆さんが記事を読んだか読まないかである。読書力の問題である。本ブログに昨年、「家の光」時代の先輩である鈴木俊彦氏の「激動の時代と日本農業の活路」について簡潔に内容を紹介したつもりだ。実物を読むのが「大変」と思う方に、アプローチして欲しかった。だが結果はみじめなものだった。すでに掲載後1年10ケ月になるが、アクセスは49人に過ぎない。

本ブログでもアクセスが最大のものは5,000を超える・・・下表参照。

アクセス数上位紹介  2016年11月1日現在

タイトル
アクセス
掲載年月
農産物直売所―売れるレイアウトと陳列
,551
2011/ 1
「食の駅」所沢店はワイドな品揃え
,096
2015/ 2
農産加工品の売価、値入は
,972
2011/11
埼玉農業大賞―桂ファームに学ぶ
,561
2011/10
農産物直売所―売れる陳列「マルシェ」
,516
2011/10
農産物の原価計算―皆さん苦手
,503
2010/12
「ふれあい大樹」-身障者の直売所
,436
2011/ 4
農産物直売所―損益の指標
,371
2011/ 2

   上位のものも2010年末のブログのスタートから見れば6年近くで到達した数字で、誇れるものではないし、いずれも経営の実務か、事例的なものが主である。農業の未来像や農政の動向についてのものにはアクセスが極めて少ない。農政や経営の将来に不満を示しながら、それを活字で正確に知る努力を欠いているのが残念でならない。

ついでに述べると、JAの展開する直売所に対する顧客の支持も、すこぶる低いと見るべきである。群馬県の農業関連企業が展開する埼玉県所沢市の「食の駅」については、当方が紹介してきた直売所では最も後である。にもかかわらずアクセス数は3,096である。この店に近いJA直売所については数か月前に紹介したのに、未だに315でジャスト1/10である。その他JA系の直売所も6年前から順次紹介してきたが、210、124、175、266、334といったアクセス数である。

直売所記事へのアクセスは、「噂で知ったので、確認してから行ってみたい」と思う消費者である。つまりJA直売所は消費者にそれだけ「関心」を持たれていないといえる。ネット上では当方が住む埼玉に近い、遠いいには関係ない(周辺の消費者の密度はある程度関係)。店の鮮度、価格、品揃え、接客・・・等々に魅力がなく、消費者が関心を持って見ていない証である。この反省がJAや関係農業者にあるのだろうか。なければかつてのJAコープ店舗のように衰退し、あと5年もすれば1/3は消えるのではないか。

補助金などの「おんぶにだっこ」のJAや農家の多くの人の体質では、消費者の支持は得られない。文春で小泉氏は「生産者を守る最後の砦は消費者である」として、ITも駆使し生産性を高めるとともに、安さと高品質と2極化している消費者のうちの「意識ある消費者」(後者)と結び付加価値を実現していくべきだ・・・との見方を示している。

消費者2極化の研究については、「安さだけが総てでない」の当方ブログ(主婦の食のライフスタイル分析)も読んで欲しいが、アクセス数はパットしない。直売所でもまだまだ「市場に出せない等外品を安く売るのだ」という考えを持つケースが多い。「食の駅」所沢の近くのJA直売所もその典型例である。

すでにブログで書いてきたが、直売所の商圏はスーパーの倍、3倍も広く、遠方から「鮮度、個性ある品質、安全などにこだわりを持つクオリティ型のQ型顧客を中心に集客している」のが実態。安さを求めるプライス型=P型顧客は、野菜だけ安くても得にならず来ない。コンビニエンス型=C型の顧客は近くを通れば寄る程度。多様な品揃えを求めるバラエティ型=V型は品揃えが青果に偏った直売所は敬遠し、大手スーパーに行ってしまう。そしてQ型は家族の健康、おいしさ、食の安全、時に便利さを選択し、賢い消費者といえる存在である。

・・・こうした食のライフスタイルもしっかり活字でも研究し、上滑りがないようにしないと失敗する。(小泉氏の提言の問題点はこのあとに続く・・・別のブログで紹介)




2016年6月9日木曜日

ロードサイドのドトールコーヒーはコンビニエンス




喫煙にトイレに便利!割引で1杯200円!


私はドトールコーヒーの大フアンである。財布の中には今現在郊外のエッソ・ガソリンスタンド内にある3店の20円、30円、50円の割引券11枚が入っている。毎日1.3店平均は寄るので割引券は貯まりこそすれ減ることはない。フランチャイズのため3店それぞれ割引が違い、訪ねた店の券が無い事もある。こんな時も、馴染みの店員さんがいれば、まず割引券のシートを出してくれ、1枚のみカット・・・で割引きOKとなる。

Sサイズのブレンドコーヒー220円が、時に170円、190円、(主に)200円と安く飲めるのも魅力である。このため帰りにもう一店に寄っても400円。

毎日、車を使い顧問先の仕事をこなすので、その行き帰りにあるガソリンスタンド付帯のドトールは私にとってコンビニエンスな存在。1店は毎朝仕事前に必ず寄る。コーヒーの味にうるさいほうではないが、ドトールは私好みの平均的な味を維持していて「まずい」と感じたことはない。

味よりも何よりも、早朝から開いており、最大の利点は密閉度が完全な喫煙ルームがあり、安んじてタバコが吸え、トイレも済ますことができるコンビニエンス性・・・これこそが、私にとって最大の魅力。このため銀座など都内に出たときも必ずドトールに立ち寄る。銀座などは街区ごとにドトールがある。

 
































黒地に白の英文字で、Oの字だけ黄色のロゴは、私の感覚からするとコーヒーショップ中、最もハイカラだと思っている。遠くからでも風景に埋没せず、識別もできる。

ちなみに、ガソリンスタンド内の標準店舗を紹介すると、営業時間はAM6時~PM12時。駐車場はせいぜい4~5台と少ない。建物は6×5=30坪ほど。接客フロアー6×4=24坪、うち4坪が厨房+接客カウンター。某店の場合、禁煙席38席、喫煙席13席。ケーキやサンドイッチを入れる冷ケース2尺幅3段、パックコーヒーなどの販売台が3尺幅3台、各種ボトル飲料をいれる角型冷ケース1.5尺幅。

駐車場は思いのほか少ない。近隣住宅地の人が徒歩で訪ねるケースも多いようで、帰りにAM9~10時くらいに寄ると、お隣さん3~5人でよもやま話をしている例にもぶつかる。
(メニューについては、またの機会に)

2016年3月15日火曜日

ジャージー酪農と神津牧場ー:鈴木慎二郎氏偲ぶ!

草地酪農を追求し続けた故・鈴木慎二郎氏
    大学時代の友人・鈴木慎二郎氏(同じ研究室)がこの1月に急逝した。彼は農工大学農学科を卒業後、新冠種畜牧場、北海道農業試験所、那須の農水省草地試験所をへて定年後、群馬県の神津牧場場長となり、酪農に関する飼料作物や草地研究の道を歩いてきた。農学科内ではトップの成績で、人情味あふれたナイスガイであった。元気な日常生活を送るなかでの急逝で、残念でならない。
写真① バンビのように可愛いジャージー牛

 彼は、2015年8月に自費出版した「草地酪農半世紀」-神津国太郎の意志をつなぐーを世に残してくれた。特にサブタイトルからも推察できるが、ジャージー酪農の神津牧場の記述が、214ページ中90ページに及ぶ。記述の最後に彼は「ジャージーのような小型で飼料利用性の高い乳牛は、日本のように傾斜のきつい山国で、酪農を行うのに適していると思う。飼養に当たっての基本は、神津邦太郎がすでに明治期に示しており、その遺志を継いで事業を行うことが、飼料自給問題解決の一つの道と信じる」と述べている。

 さらに「山間の水田は不耕作のまま放棄されている。第二次大戦まで軍馬の生産に充てられてきた牧野が100万ヘクタール近くあった。また旧薪炭林林と言われるものも数百万ヘクタールある。これらの一部はすでに山林原野に還っているものも多いが、将来の食料問題を考えるならば、家畜の生産に活用できると考える・・・奥山に生産活動を行う牧場があれば、周辺の集落にも安心感ができ、地域の活性化にも役立つと思う」と結んでいる。
写真② 優良牛(鈴木氏の年賀状から)

 私がジャージー牛に出会ったのは60年まえほど前。八ヶ岳山麓を訪ねたときだ。その後は10年前に故人が場長の時代に神津牧場を2度訪ねた時くらい。それでも、乳脂肪率が5%と高いジャージー牛乳が気がかりで、紀ノ国屋、明治屋など高級スーパーを回り、どの程度の値で売られているかチェックしたものだ。

 神津牧場がジャージー牛を古くから選定してきた理由は、「乳期(長い)、乳量、乳質、飼料の利用性、取り扱いの良さ、健康、遺伝力、そして継続性ある酪農経営が可能なこと」と彼は指摘している。ホルスタイン成雌の平均が体重650キロ、体高141cm、乳量年間5,000kg(最近平均8,600kg)、乳脂率3.6%、無脂固形分8.7%に対し、ジャージー成雌のそれは400kg、130cm、3,500kgほど(神津牧場平均5,548kg)、5%、9%で、体形が小型であり、乳量も少ないが乳脂肪や固形分が多いのが特色である。

小型で蹄も強いので、傾斜地を移動することが楽にでき放牧に適している。彼の記述によれば神津牧場では100haの草地があり、うち約80%を放牧に充ててきた。冬場は畜舎飼いだが、春から秋は放牧。搾乳牛の放牧は4月中旬から始め、5月の連休後は昼夜放牧となり、夜間も野で過ごす。職員は朝5時に放牧地まで迎えに行き、朝8時前後までにミルキングパラーで70~80頭の搾乳を終える。再び別の放牧地まで牛を追い放牧。午後1時になると迎えに行き、牛舎に戻ってから補助飼料を与えたあと、午後2時半から搾乳し5時前に終える。再び別の放牧地へ牛を追って行き翌朝まで放牧する。・・・・この通りで、春~秋は放牧で手間も濃厚飼料も大幅に削減できるのが特徴である。
写真③ 草地での放牧風景(鈴木氏の年賀状から)

 彼の提案が妥当性を持つことは、他の研究者によっても古くから証明されている。例えば昭和54年に当時の岡山酪農試験場の三秋尚氏が書いた「ジャージー牛飼養と飼料作物」を見ると、ジャージー牛は・・・
    飼料中の栄養分を牛乳や乳脂に変える割合が高い。
    基礎資料(粗飼料)をよく食べ、よく利用する。
    以上の利用率の高さを生かし、良質な基礎飼料を充分に与え、高い能力を発揮させる。
    基礎飼料の質の向上と増供与によって、泌入乳量を増やすほうが、濃厚飼料の増給与よによる効果より経済的である。
    ジャージーは体格が乳牛中で最も小さく。維持飼料が少なくて済む・・・ホルスに比し一般に養分総量(TDN)は1/2、可消化祖蛋白質量(DCP)は1/3ですむ。
    体が小さく軽快で、蹄が丈夫で、機敏性に富み、30度前後の急傾斜地の放牧に向く。
    早熟で利用年限が長く、乳牛の償却費の節約になる。ただし良質な基礎飼料と十分な運動が条件。
・・・と主に飼料面からの特徴が整理されている。

 今年は地方創生元年と言ってよい。耕作放棄地がすでに40万ヘクタールもあり、ほっておけば中山間地区の荒廃が進む。人力の不足するなか、広範囲の山間地をカバーする農業となるとやはり放牧中心の酪農となる。多くを草地化し、一部水田には飼料稲やトウモロコシを栽培して濃厚飼料に近いものも確保する。一方で6次産業化として生乳工場、バター、チーズ、ジェラード、アイス、プリン、洋菓子などの加工場を持つ。そして逆に中山間地に多い「道の駅」に地域特産品として供給する。また牧場自身が牛とのふれあい、農作業や加工作業の体験の場とし、観光地に成長すれば、地域の雇用もさらに増える。神津牧場に行けばそのモデルをつぶさに見ることができる。現に神津牧場は地元「下仁田道の駅」に、鈴木氏の主導で別会社を作り、ソフトクリームほかのカフェを経営し、10年近く黒字を続けてきた。

2016年3月12日土曜日

ネパール・インド料理の「アルン カフェ」指扇領別所店ー安い・うまい!


 私の顧問先に、フランス人形のように可愛いネパール人のジーナさんというのがいる。そのご主人が2月末に「アルン カフェ(ARUN CAFF)というネパール&インド料理の店を開店した。場所はさいたま市指扇領別所832-8(電話048-729-5338)である。川越線の指扇駅を16号線に向け北上し「ドラックスギ」の反対側の露地を曲がり、数店目である。E営業時間は11~15時、17~22時。目下休日は無し。
   12坪ほどのこじんまりした落ち着きを感じる店。見学がてら伺ったときも2組、計8人ほどの日本人客がにぎやかに歓談しながらランチ中。ファミリー客にもってこいの安さである。そしてお腹も一杯になる。ランチ・タイムの11~15時ではカレーセットの3種が600~780円。このほか、レディーセット900円、スペシャルセット1,050円、お子様セット580円。いずれも選択できるカレーに加えナンまたはライス、サラダ、ドリンクがセットになっているから嬉しい。お持ち帰りセット500円もある。

私は正直なところ入歯の高齢者で少食のため、恥ずかしいながら「お子様セット」にしてもらったが、ビザに似たネパールの主食「ナン」の大きさにびっくりした。子供サイズとは思えない皿の幅を超える大きなもの。ナンは別のネパール人が家庭で焼いたものをプレゼントしてくれたことがあり、今回が2度目だ。香ばしくて、これにカレーを付けると食がいくらでも進む。お子様用はマイルドチキンカレーだったが、液体部分の味の甘味を伴ったマイルドさ、舌触りの滑らかさは実に見事だった。
ところでネット検索すると、全国で次々「アルン(ARUN)」の名のレストランだ誕生している。ッジーナのご主人に聞けば分かることだが、ネットで調べた限りでは、社会的貢献に沿った企業経営を勉強してもらい、そのうえで店舗等の投資資金を出す・・・というファンドがあり、ここの資金を使って店舗開店に至ったように思う。支援プログラムもあるようで、外国人の経営であっても、価格やサービスが充実しているのがうなずける。

2016年2月16日火曜日

中小企業診断士の鏡-故・橋本文夫先生を偲ぶ

    農業経営診断を皆と体系化

   中小企業診断士の全国横断的な「一般社団法人・農業経営支援センター」という組織がある。私も発起人の1人となり、平成17年7月に結成され、全国100人ほどの会員を擁する農業コンサタントの集団である。その初代会長(当初は任意団体)であった橋本文夫先生が今年1月13日に急逝された。

橋本先生はNCR勤務15年、コンサルタント事務所運営45年を通じスーパーやショッピングセンター、直売所、レジャー施設、飲食業等の経営戦略や開店の実務指導を数百件もこなし、NCR時代には部下の教育も担当し、独立後は診断協会の静岡県支部長、診断協会の理事も歴任され、経営学や診断学の王道を歩んでこられた。実際、下記のとおり数々の表彰を受けている。

橋本先生の表彰歴

表彰年
賞名
昭和58
静岡県知事賞
平成元年
中小企業診断協会静岡県支部長賞
(支部創立30周年記念)
平成5

中小企業診断協会会長賞
平成6
中小企業庁長官賞
(中小企業基本法施行30周年記念)
平成8
中小企業庁長官賞
(全国中小企業診断大会にて)
平成10
通商産業大臣賞
(中小企業診断業務)
平成11
静岡県商工会会長賞

平成16
通商産業大臣賞
(経営診断及び助言)
平成16
静岡県宅地建物取引業協会会長賞
(会の運営と業界発展向上に貢献)
平成18
中小企業診断協会会長賞
(分科会シンポジューム)
平成19
中小企業診断協会会長賞
(中小企業の強化推進に貢献する多くの論文発表)
平成21
中小企業診断協会会長賞
(創立55周年記念・中小企業診断士の地位向上に貢献)
平成21
中小企業診断協会静岡県支部長賞
(30年以上支部の発展と地域活性化に貢献)
先生の偉大さの第1点は先見性である。「地域活性化には、農村・農業の近代化が必要」と、今日的なテーマの「地方活性化-地方創生」にいち早く着目され、農業経営診断を平成15年くらいから始めれれ、平成17年7月に農業支援センターを誕生させたことである。私は、この農業経営支援センター結成時に先生と出会い、10年半ほどご指導を受けた1人である。
写真① 中小企業診断協会会長賞の授賞式(H19年)の橋本先生

第2の偉大さは、「経営診断のノウハフは、個々のコンサルタントの頭の中にしまい込むのではなく、マニュアル化という形で誰もが利用できるようにしてこそ価値がある」と、マニュアル作成を推進したことである。支援センターの結成以前の平成16年3月に「農業経営診断実務マニュアル」~経営診断手法入門~(社団法人 中小企業診断協会出版)を、10人ほどの仲間と完成させている。決して農業分野だけでなく、副題の~ ~にあるように、あらゆる分野の診断手法に通じるものである。

支援センター結成後も、絶えず10人ほどの関心ある仲間の知見を結集し、平成18年2月に第2集の1と2、19年2月に第3集と「農業の診断・事業計画策定事例集」を完成させた。診断協会の財政支援によるものである。第1集~2・3集その他の総ページ数は1100ページほどの膨大なもので、いまも多くの支援センター会員の書架で、いざという時のバイブルとして輝きを放っている。

















写真② 先生が監修された全5巻の農業経営診断マニュアル

実際の農業者からすれば、あまり関係のないことと映るかもしれない。しかし、経営近代化には第3者の客観的なアドバイスも不可欠である。このアドバイスが不適切であれば経営は混乱し、発展するものも逆に壊れてしまう。

先生の偉大さの第3点は、じっくり聞きとり調査をし、「経営の一断面で捉えるのでなく、経営の基本理念の妥当性、財務、生産、販売、労務にわたる総合力を重視した」ーその姿勢である。全体像を正確につかみ、長所・短所、社会への適合性も見極め(swot分析)、改善点を導きだす、極めて綿密な診断である。農業者の皆さんは「費用がタダだから」と行政庁の補助金による数時間の簡易な診断・報告を望むことが多い。これでは、役立つ方向性をなかなか得られないことを知って欲しい。
写真③ 富士宮市での6次産業化研修会の生徒と共にー前列左から2人目

橋本先生は診断一般で終わらず農業部門ごとの経営・生産・販売、そして経営指標にも踏み込んでいる。マニュアル第2集-2では、稲作、麦作、野菜作、酪農、肉牛、養豚に切り込み、特に野菜作ではハウス、溶液、水耕、植物工場についてまとめ、第3集では花き、果樹、きのこのマニュアルを監修した。第4集では別の角度で、事業計画の策定を監修した。もし農業者の方で、部門別の実務マニュアルが学びたければ、当方にメールをしてほしい。部門に詳しい会員を講師として派遣することも可能である。

先生の偉大さの第4点は「企業は人なりのマンパワー」の重視である。診断の入り口で、「経営者の自己診断表」を提示していることだが、これは①経営者、②経営の基本、③販売管理、④生産管理、5労務管理・・・について10要素を上げ、5、4、3、2、1の5点法で自己採点してもらうもの。これにより経営者自らが強み・弱みを自覚し、自ら改善することを促すものである。これは申込んでいただければお送りする。 当方メール mkondou@vega.ocn.ne.jp 

 先生と一緒に関東某市の農産物直売所設置のコンペに臨んだことがある。この時、市の幹部から最後に「直売所設置に当たって、最も重視することは何か」との質問があった。先生はためらいなく「店長の人選ですよ。安易に(定年退職まじかの経験も知見もない職員を連れてくるようではだめ)」と言いきった。相手は厳しい意見に面食らったように思う。地元の浜松でレジャー施設を作る指導の過程でも、まったく同じ指摘をしたことを後で知ったが、マンパワーの大切さを極めて重視する表れである。数百店の専門店、スーパー、ショッピングセンター、飲食店、レジャー施設などの、事業計画策定だけでなく、施設設計、レイアウト、商品配置、従業員教育等の実務指導までやり、その中で得た哲学と思っていただきたい。


弔辞

平成二十八年二月二十八日   ヤマハ元会長 中小企業診断士   岸田勝彦                

去る一月二十八日、西部地区診断士同友会の北村勝利会長よりご連絡が入り「中小企業診断協会 静岡県支部長をつとめられた橋本文夫先生が一月十三日にご逝去された。ついては橋本先生の薫陶を受け、お世話になった関係者でお別れの会を開くことになりましたので、その席上岸田さんに是非とも弔辞をお願いしたい。」との事でした。

生者必滅が世のならいとは申せ、実戦的な経営コンサルタントとして、中小企業診断士として、静岡県はもとより全国的な広がりでご活躍され多くの功績を残されてこられた橋本先生の訃報に接し、私自身心の底からご尊敬申し上げていた方だけに大変落ちこんでしまいました。同時に橋本先生の持ち前の懐の大きさ、真のプロフェッショナルとしての深い見識と熱き魂にふれてこられた多くの優秀な中小企業診断士の先生方をはじめ、立派な知人友人を差しおいて私が弔辞を述べさせて頂くことの是非について瞬間的に悩んだ訳ですが、橋本先生をご尊敬申し上げていた後輩の一人として誠に僭越ながらお別れのことばを述べさせて頂くことになりました。

ところで私は中小企業診断士としては やや遅咲きの部類に入るかと存じます。つまり一九九年末、会社に於いて事業部を担当していた私は与えられた職責の大きさと、自身の実力との間にギャップを感じ、ジェネラリストとして更なるレベルアップを目指し中小企業診断士受験講座という通信教育をスタートしました。49才の時です。

一次で一回、二次で二回失敗して、後がない状況の中で必死の思いで追いこみに入っていたある日(1995年)、静岡新聞紙上に写真入りで中小企業診断協会静岡県支部長に就任された橋本先生のかなり大きな紹介記事が載っており、それを読み橋本先生の人となりとお考えに感銘を受けた

私はそれからというもの一段と受験勉強に熱が入り、翌年四月には晴れて中小企業診断士として登録されました。以後このような経緯から橋本先生の一言一句、一挙手一投足に耳を傾け注目して参りました。

私は製造業という限られた領域の中で、ビジネスパーソンとして生きて参りましたが、橋本先生は、皆様ご存知の通り地域、業界、業種のカベを超越して多分野に亘り、広く深く見識と手腕を発揮されて参りました。ショッピングセンターなど商業分野に於ける県内第一人者の枠内にとどまらず、農業経営分野に於ける経営コンサルタントの先がけとして静岡県の農業を全国トップクラスに押し上げた最も影響力を発揮した一人に数え上げられるのではないでしょうか。

ところで、現在の我国経済をとり巻く内外の環境はグローバル化の荒波の中で、益々不透明感が増し、各企業にとりましても受難の時代といわれます。このような時代背景にあって常に羅針盤の如く明確に方向性を示された橋本先生を失ったことは、日本経済並びに静岡県経済にとって大きな損失と申し上げても決して過言ではありません。又、私自身にとりましても私が思い描く経営コンサルタントとしての理想像であり、私が到達したい人生の目標像であり続けた橋本先生を今こうして失い正に痛恨の極みであります。

結びになりますが、橋本文夫先生のご冥福を本日ご列席の皆様方共々お祈り申し上げますと共に、ご遺族の皆様のご健勝とご多幸をお祈りしお別れのことばとさせて頂きます。