2017年5月27日土曜日

アメリカの流通視察で得たもの(昭和43年)

農産物流通の昭和後半史と私-④彼我の差は大

1.折り目正しい日系一世 
    アメリカの流通視察は計4回。昭和43年~62年の間に集中し、かつ西海岸ばかりと偏っている。また、第1回は2週間で、他はいずれも1週間。このため最も古い43年の視察が印象的で、かつ内容も充実していた。夏休み時期の旅だった。すでに触れたが、(株)農経新聞の主催で青果の荷受会社、仲卸、小売商のメンバーにコーディネーター役の私を加え38人の大集団。西海岸の北端(日本の北海道の緯度)のシアトルをスタートし、サンフランシスコ、ロスとバスで縦断した。農経新聞主幹の松浦恵先生(元・産経新聞記者ー故人)が同行せず、駆け出しコンサルタントの私を引き立ててくれるための企画と言える。なにせ、英語がまったくしゃべれず、引率経験もなかった次第である。だが、美人で経験も豊かなガイド兼通訳2人が助けてくれ、さして不便はなかった。

 目的は農業と農産物流通視察。したがって野菜やレモンの農場を3件ほど訪ね、あとはスーパーやファーマーズマーケット等やサンキスト・レモンの選別工場、キコーマンの現地工場、サティスファイド・グローサーズサーズ(アメリカ最大のボランタリーチェーン)や当時あったセーフウエーの集配センター等の視察・・・といった内容である。アメリカで成功している日系人のレタス農場、同スーパーマーケットの訪問を含む。個人としては友人と2人で、日系人の一般家庭(植木職人)も訪問した。

 カナダのバス会社の貸し切りだったが、空港からシアトル市内に向かう途中セブン・イレブンが目に付いたので急遽バスをとめ見学。青果店のメンバーが5人ほどいたので青果の話になるが、8尺のオープンケースに鮮度の悪い野菜・果物が20品ほどあるだけ。「これじゃー売れないな」と皆が直感した。帰国してしばらくしてからセブン1号店が出来て生鮮皆無を見て、「これが正解だな」とこの時のことをすぐ思い浮かべた。後、日本のセブンがアメリカのセブンを飲みこんだのも、着眼点(便利性優先ー生鮮は主婦の商品)や勤勉さ(アメリカー2流の従業者でよしとする雇用)という経営力の違いだったと言える。

 シアトルから南下するとカナダに向け北上するキャンピングカーに次々出会う。サンフランスシスコの海辺に出ると南下してきた人は時に毛皮のコートを付け、北上してきた人はポロシャツや肌もあらわなワンピース姿。このアン・バランスが面白い。沖合では寒流と暖流がせめぎ合っているとのこと。

 アメリカ西海岸の特徴は、沿岸部に限れば日本のような「歴史的重みのある観光地」が全くないことだ。バスで途中下車して見た観光地らしきものは人工のダムと宿泊に利用したサンタ―バーバラの海岸リゾートのみである。観光の中心はもっぱらシアトル、サンフランシスコ、ロスという都市そのものだ。公園の広さや、その中に必ず日本庭園があった。他の国の庭園もあると思われたが、やはり日本庭園の異質の美が称賛されている証だと思った。

一番注目に値したのは、経済的に成功した日系一世。何人かに会ったが、折り目正しいジェントルマンばかり。戦時中収容所に隔離された嫌な思い出を背負いながらも、戦後アメリカ社会に溶け込み勤勉に誇りを持って働いてきた気概がひしひしと伝わってきた。ちょうど繊維摩擦(昭和30~45年の長期)が勃発していたときだ。ジョンソンマーケットの稲富会長さんからは「日本に帰えたら、戦後ララ物資などで食糧危機を救ってくれたのだ。皆さんにアメリカと仲良くするよう伝えてください」と言われたものだ。

   日系人の渡辺さんという一般家庭も2人だけで訪ねたが、植木職人さん。器用さのため庭の手入れ一切を請け負う様子で、収入も多く貸家も一軒持っていた。自宅は木造建てだが、リノルーム状のものを敷き詰め、何処までも土足で行けた。広い卓球場まで持ち家族で楽しむ。「アメリカ暮らしをしたいな」の誘惑にかられたものだ。

2.レタス農場にはバキューム・クリーング
 シアトル郊外で訪問した日系人農場の経営者は女性だった。何も思い出せないが「ミシン」「ミシン」という言葉にとまどった。農機具のことだ。ミシンは機械のことで、マシンが変形してミシンとなったが、ここでは農機具がなまってミシンと発音されていたようだった。農場の機械化については、農薬や肥料の散布など部分請負の業者がいて、これに負かせて生産性を上げていることも知った。日本でも機械投資が加重という問題がある。今後「部分請負い」の形が進んでよいと思った。

 カリフォルニアのサリナス地区は、ジェムス・ディーンの映画「エデンの東」の舞台…東海岸まで、一攫千金を目指しキャベツ?を氷を使い冷蔵輸送する。途中で氷が解け、夢ははかなく消えた。日系のレタスキングの1人に入る方(名を忘れてしまった)の農場を訪ねた。たしかレタスだけで2,400エーカー(600ha)と聞いた。見渡す限りレタス畑。働いているのはほとんどがメキシカン。玉を壊さないよう手で収穫していた。

ディーンの2の舞にならないよう、畑の1ケ所に長さ100mもあろうトンネル状のものがあった。レタスをトロッコに乗せ、レールで奥まで押し込み、入り口を完全封鎖。そして空気を抜き取り冷却するマシンである。言葉では知っていたバキュークーリングム(真空冷却装置)だったが、日本では常温輸送が普通の時代。感動したものだ。

このレタスキングさん・・・夕方に兄弟、子、孫まで含めて10人以上を集め、私ども38人の歓迎の宴を開いてくれた。地元一の豪華なレストランである。3世のお孫さんは、日本語を皆目話せない。これを訪問客の間に挟み込んだから、少々困惑気味だった。英語を話せない我々も同様だった。休みの日には、自家用飛行機でサンフランシスコの映画他を見に行くそうだ。それだけ地元に娯楽施設がないことを物語る。盛大な宴会もまた家族の娯楽の一つだったはず。視察者全員が感謝感激したのは云うまでもない。

カリフォルニアのサンキスト・レモン工場の近くのレモン農場・・・1本の木につぼみ、花、青い実、熟れた黄色の実がついていた。常春か常夏の気候がなせるわざわざ。雨量が少なく、ローッキード山脈から水を引き、スプリンクラーで散水する方法が主流で、これは西海岸の農場すべてに通じる。サンキストの工場・・・1粒1粒に「サンキスト」の刻印がフルスピードで打たれい。壮観だった。この時代、この刻印で世界にブランド力を誇っていた。

サンフランシスコやロスでは、青果市場にも出向いたが、日本に比べはるかに小規模で、日本の仲卸に相当する店が主体。スーパーの青果の一部を供給するにすぎず、スーパーの扱い額のほとんどは、規模の大きい農場との直接取引。スーパーの集配センターに集荷され、不良部分を削り店に供給。セーフウエーの集配センターにはカットした痛み部分のバナナが山と積み上げられていた。思わず試食し「恥ずかしい真似はするな」と荷受会社の仲間から注意を受けてしまった。

3.西海岸は特有の裸陳列―パック品なし
アメリカ東海岸は青果のパック売りが中心で、当時の西海岸のスーパーは裸陳列全盛と聞いていた。事実キュウリ、トマト、大きな莢のエンドウやインゲン、葉物、ニンジンなど、総て同じ方向に向けてバラ陳列されていた。また赤いニンジン、その横がキュウリ、さらに横がトマトといった具合に、カラーコントロールの技法を採用し実に美しかった。この美しい陳列を生み出したのは、ロスの高級スーパーであるゲルソンマーケット。器用な日系人従業員が編み出した陳列法と聞いた。事実、ゲルソンの青果陳列がピカイチだった。ドライ食品、菓子、雑貨の陳列も、日本と違い縦の面に凹みのない美しさに驚いた。人件費が高いが、夜間とかに専門のバイトが陳列作業をするとのこと。だから美しく早く陳列でき、人件費もかからないですむようだった。「アメリカ人はおおざっぱ」という見方は、こと陳列には当たっていない。

観光地と化したファーマーズマーケットは、これまたどこもカラフルな裸陳列。すぐ30店、50店もが軒を並べ、観光客を集めてにぎわっていた。屋台の集合体的な陣形だった。あっちこっちと見て回る楽しさがあった。

ロスでは、稲富さんのジョンソンマーケットに車で走ったが、大通りの交差点に向かい合ってスーパーがある場合が多かった。車社会とはいえ比較購買のしゃすい戦略をとっているように思えた。稲富さんの自宅はロスの郊外。店舗で夫婦で出迎えてくれ、ラスベガスに行かない5~6人と伺った。となりはゴルフ場で垣根なしの芝生でつながっていた。庭には訪問して歓待された日本人だお礼の品で送った灯篭ほかの石細工等がいくつも並んでいた。経営は息子さんに任せ悠々自適の生活ぶり。息子さんはボランタリー・チェーンのサティスファイド・グロサリーの理事も務めていられ指導的役割にあった。そして中堅スーパー5店ほどを経営していた。勤勉さのため信用され、アメリカ人から出資を受け、チェーンを形成してきたとのこと。

 キッコーマン醤油の現地工場では、配送センターの機械による配送地区別、得意先別の仕分けにビックリした。日本ではまだそこまで行ってなかった時代だ。サーティスファイド・グロサーズの集配センターではさらにびっくり。床にレールの上を爪が一緒に流れ、これで荷物を積んだ台車をひっかけ、思い通りに位置に次々と運んでいた。外に並ぶ配送トラックの大きさも、日本で見たことのないもの。道路の整備があって初めて運行可能になるジャンボさだった。

 いまのアメリカにはマンモス的な悲劇が随所に見られるが、当時はこと物流システム化については、日本の2倍、3倍も先を行っていた。そして大農場とスーパーの直送も進んでいた。借地農業であれ、日本での農業の大規模化が進まないかぎり、アメリカ型の農産物流通にはなりにくいことも事実である。肉や魚の流通・販売については、よく知る機会がなく、報告ができないのが残念であった。

2017年5月25日木曜日

青果店近代化とミニチェーンの実践(昭和40年代)

 農産物流通の昭和後半史と私-③ボランタリー化

1.「天皇」と呼ばれた大澤常太郎氏(青果小売商組合)

 昭和40年代はスーパーが急成長した時代だが、まだまだ八百屋、果物屋、肉屋、魚屋など、食品関係の小売業が伸びている時代だった。東京のどこの商店街に行っても、八百屋、肉屋、魚屋、総菜屋というものが各2~4店くらいはあった。

 神田市場にも足しげく通った。今は大田市場が東京の中央卸売市場の中心だが、移転前は神田が青果物の中心であり、各種の業界紙もたくさん出入りし、青果卸売商、仲卸商、小売商等の東京支部、全国連合会本部も市場に近くにあった。特にお世話になったのは東京青果小売商組合であり、またその全国連合会であった。

東京青果小売商協には、取材かたがた訪ね、「青果の流通に詳しいなら、講師に加わってくれないか」と、事務局長が専務や会長にも紹介してくれた。そして独立した年から3年ほど夜間の「経営近代化講座」を担当した。農水省の助成を受けていたかは分からない。神田、新宿、豊島、荏原、足立の5市場で実施され無料講座だった。各会場40~50名が集まり、午後6~8時という店の後かたずけの忙しい時間帯に実施されたが、欠席者もない熱気あふれたものだった。

1年目こそ演題は「青果の生産・流通」だったが、2・3年目からは参加者の優良店を回り、撮った写真をスライド化し、販売中心の話にした。これが受け、テープレコーダーを持ち込み、声のみを熱心に録音するものが多数いたようだ(後日談)。当時の青果商の皆さんは、いかに安く、上手に仕入れるかをセリ現場で競っていたようだ。築地市場で5人の青果店に集まってもらい座談会を持ったことがある。全員が「自分が一番上手に安く仕入れている」との発言に戸惑ったものだ。販売となると、他店を見て回る暇がなく、比較できないためか「俺が一番」との声は出なかった。しかし多くの青果店が「スーパーより新鮮なものを安く売っている」と自信を持っていた時代だ。

青果店のエリートは講演が終わってからも、残って話しかけてくる。こうした人の店を回り、その良さを写真で撮りまくった。たとえば、品川区の大井町にあったAさんは、スーパーですら裸売りや、ポリ袋入りで売っていた時代に、座った姿勢でポリプロピレンを四角に切り、ナスやキュウリ他をトレイを使わず上手にラップし、セロテープで止め販売していた。鮮度が保たれ、かつ見た目も実に美しかった。新宿区の飯田橋かいわいにあったBさんは、無料で配布される産地のポスターをため込み、店内の2つの通路の天井に画びょうで止め、入り口から奥へと計20枚以上も展示し、にぎやかさを演出し、箱の中のトマトなどを列売りもしていた。中野区のCさんは、残った葉物をヒヤリとする床に並べ、鮮度保持を図っていた…数々の優良事例を紹介することで高い評価を受けた。それだけでなく、私も会員の一人として会費を払い「青果店近代化研究会」を結成した。35人ほどの会であったが、毎月20人前後で意見を交換、時に店舗見学も行った。

当時の青果小売業界には「天皇」と呼ばる人がいた。大澤常太郎氏だ。氏は「市場で投機的な高値が出たときはストライキも辞さず」と青果小売組合を大正7年に結成した初代の小売組合長である。そして東京だけでなく、全国青果小売商組合連合会の会長でもあった。職員を引き連れ農水省の中を闊歩するほど。見識もあり態度も実にジェントルマンで、尊敬を一身に集めていた。旧東京市の市会議員もやり,「何苦礎(なにくそ)一代」他3冊の著書もある。

大澤会長は私の名前を憶えていなかったようだが、時に話しかけてくれた。アメリカのロスアンゼルスでスーパー・チェーンを経営する稲富さん(ジョンソンマーケット会長―すでに故人)が日本に来て大澤会長に会う際、「君、あした品川のプリンスホテルに稲富夫婦を迎えに行ってくれ」と特別な任務をおおせつかり、光栄に思ったことがある。稲富さんとはこれが縁で、4回のアメリカ視察のたびに、ラスベガスに行かない視察者5~6人を連れてロスの自宅を訪ねさせてもらった。

神田に事務所を構える全国青果卸売会社協会の関谷尚一会長(当時、神田の東一社長)、全国青果卸売(仲卸)組合連合会の江澤任三郎会長といったドンもいた。それだけ、青果市場は今の数倍も栄えていた証と言える。関谷尚一会長には取材で3度ほど会っていたが、やはり見識を持つジェントルマン。亡くなられた際は、杉並区堀ノ内のオソッサマ(妙法寺)で葬儀が行われた。葬儀の花輪は100本が奥にも3列並び、計300本はあったように思う。驚きだった。

2.公設食料品総合小売市場の失敗
 昭和40年ごろには、青果小売店に限らず零細小売店すべてが、スーパーの影響力におびえ始めていた。農水省も対策として、「食料品総合小売市場管理会社法」を農林水産委員会で検討を始めた。これは「小売業の協業化を推進し、経営の近代化を進めるため、東京にとりあえず20ケ所のモデルとなる総合小売市場をつくる」というものだ。もちろん物価対策の側面も大いにあった。スーパーに関係する複数の小売業種から希望者を募り、選抜し、共同の会社を設立、生産性を上げるためレジを置きスーパー化して運営するもの。

 農林水産委員会では「少数の者しか参加できず、近隣の小売商にとって逆に悪影響が出る。青果小売商組などは青果信用組合を通じ店舗改善融資も行って、独自に近代化の努力をしているので反対」(前記・大澤会長)とした。東京の青果小売商組は信用組合を持つだけでなく、総合化を目指し加工品他販売資材の共同購入も推進していた。逆に鮮魚小売商組は「近代化の一助になる」と賛成した。

 実際に施策が推進されたのは昭和42年ころだと記憶している。私も都内某所の公設市場のアドバイスを担当した。生鮮3品+乾物店といたもので済めばまだしも、薬局や文具店まで参入し、株式会社として一体運営する。ところがスーパーの運営にまったく知識のない文具店の代表が社長の座を求めたため、つかみ合いの深刻な対立が起きた。

 関西地方では、大正時代から物価対策のため公設小売市場が多数作られ、各業種がそれぞれのパートを分担した寄合形式で運営し成果をあげてきた。だが新規の施策は、寄合市場でなく、「経営統合した小型スーパー」だ。共同経営もスーパーの経験もない零細小売店が、いっきにそこに行くには無理があった。これまで自力で所得をあげていたものが、月給取りになる・・・との抵抗もあったはず。また指導をするコンサルタントも育っていない時代である(私はこの2年後くらいになって、はじめて陳列や販促のミニ・スーパーの実務指導の経験を積んだのだが)。

大方の事例ではスーパー化にともなう労務管理、仕入れ管理、販売管理、財務管理といったマネージメントが適正にできず、2~3年で破たんに追い込まれた。店舗名は残っていても内実は共同経営者のうちの1人が引き継ぎ、再建するといった姿だった。農水省案は完敗したのである。

3.ボランタリー時代が来ていた
昭和30年代後半や40年代は、専門店が総合化、セルフ化していくため、共同購入を中心に同志的結合するボランタリーチェーンの発展期であった。もちろん急成長をとげるチェーン・スーパーに対抗していくためである。

小型スーパーを主に結集した食品ボランタリーの全日食チェーンやセルコが誕生したのが、共に昭和37年である。そして日本ボランタリーチェーン協会が結成されたのが昭和41年である。複数店舗を要する中堅スーパーマーケットが結集したCGCジャパンが結成されたのはやや遅れ、昭和48年であった。

私は先記の「青果店近代化研究会」を2年ほど続けてきたが、青果専門店として発展していくには「やはり青果専門店では無理」と考えた。いくら鮮度が良く、仕入れ上手で安く売れたとしても、店に入ったら何か買わないと帰れない」といった圧迫が働く。総合化、セルフ化し、自由に出入りできるようにし、買いやすさを付与する・・・こうしないと、スーパーに馴れた消費者にそっぽを向かれる。セルフにすれば、店主が市場から帰るのが遅くとも、奥さんの力で午前9~10時に店を開けることも可能になり、前日の残りの青果と加工食品、菓子、雑貨などを買ってもらうことができる(身近な近隣の店として)。発想とすれば、コンビニに近いものであった。

43年に最初のアメリカ西海岸2週間の視察旅行をした。青果卸、仲卸、小売商38人ほどの視察団で、初日に北端のシアトルでセブン・イレブンも見学した。平冷ケースにスカスカに青果15品ほどが並び、鮮度も極端に悪く腐れ品もあったほど。「これでは手本にならない」と、青果店の仲間と話したほどひどかった。後に日本のコンビニのどのチェーンも、生鮮を避けてスタートしたのは正解であった。向こうは退役軍人や日系2世など、どちらかと言えば、小売に精通していない層がフランチャイジーになり、小売のノウハフに精通していない。かつ勤勉度も日本に劣る。こうした欠点が出ていた。

「日本の青果店は勤勉だし、やる気もある」と、総合化・セルフ化に力点を置いた「みどりチェーンの店」という名の組織を発足させた。昭和45年のことである。セブン・イレブン1号店が登場するのが48年で、その3年前である。都内5市場の小売商の青年部長クラス3人を含む最終11店のミニ・チェーンである。加工食品の仕入れ元は、全日食から分かれたメルシーチェーンの了解のもと、その某店から仕入れさせてもらった。私の友人が精肉コーナーとして入っていて、前からお付き合いのあった店だ。友人の業績が悪く撤退し、従業員が1人宙に浮き、この従業員を午後から助手として雇い、11店へ配送をしてもらった。

問題が一つあった。当時の青果商組は関連品の共同購入を推進していたため、これとバッティングするため、組合のエリートが参加していたものの、青果小売商組との関係を断つはめになった。

4.11店舗のミニ・チェーン推進&阿部幸雄氏
運営形態とすれば、私の主催するフランチャイズだが、月1回の例会などでノウハフの交流をするボランタリーもどきでもある。会員店の売り場規模は7坪から最大で30坪。後に誕生したコンビニは30坪が標準であり、平均からするとかなり狭い。出資金10万円円、会費月1万円、商品供給手数料3%、商品供給はドライ食品は本部配送、日配水物や菓子、雑貨は問屋委託。本部の支援は店舗設計・施行、主にドライ食品の品揃え、売価設、陳列、販促の実務支援。

やはり急ごしらえの感は否めず、マニュアルといったものが全くなく、助手の現場経験から売価を設定したが、参考売価も決められておらず、プライスカードも完全に添付されてなかった。このため日が経つにつれ、売価も徐々に変わってしまったのではと想像する。週1回は特売日を設け、手書きチラシを月1回近隣に1000枚撒き、これに合わせアルバイト運転手を使い宣伝カーを杉並区、新宿区、大田区、足立区と私の声で流して回る。この熱意に惚れて、「先生。先生」と呼ばれながら、チェーンを運営した。実態はフランチャイズに程遠く、かつ特売主導で売り上げを拡大しようとした面で、「便利さを売るコンビニ」とも大きく乖離していた。

44年に中小企業診断士の資格も取った。雑誌での評論、講演中心の評論家的なコンサルタントから、実務にも通じ経営分析もできるコンサルタントに脱皮する「1里塚」と言える体験をしたことになる。いま考えると、ロイアリティ―も少ないが、システム作りができておらず、与えるものも中途半端で、会員店の皆さんに申し訳ないことをしたと思っている。

 ところで、多くの人はセブン・イレブン誕生がコンビニのスタートと思っているはず。実際は雪印乳業の研修所長であった阿部幸雄氏が、アイスで通じる面があったアメリカのサウスランド社(セブン・イレブンの主催企業で、アイスの販売からスタートし、1946年=昭和21年に7-11をスタート)をたびたび訪ね、ノウハフを日本に紹介したのだ。昭和46年にまず「発展するコンビニエンスストア アメリカ食品流通のルキー」を、翌47年には「日本で伸びるコンビニエンスストア」の著書を出している。後者では28ページにわたり「実例」として、「みどりチェーンの実践」が紹介された。

私と阿部氏の出会いは、友人診断士の江連立雄氏の仲介による。2冊目の編纂に当たり「みどりチェーンはコンビと本質的に異なるが、小型店の総合化例の数字的資料がないので概略を書いてくれ」と頼まれ、確か28ページ分ほどにわたり会員店の売場面積、客数、客単価、売上高、その各伸び率、運営内容の詳細情報が載っている。渡米前に私の原稿を渡し、阿部先生が旅先のアメリカのホテルで手を加えたものだ。コンビニあらざるもの・・・との評価をいただいたが、青果の強さがマグネットになり、どの店も1.5倍も売上高が伸び、売場効率は抜群に高かった。貴重な1冊を人に貸し返却されず、細かい報告ができないが、最も大きい30坪のばあい、すでに総合化していてノウハフがあったこともあるが、日商170~180万円を実現していた。

2017年4月1日土曜日

日本のラルフネーダー竹内直一氏と出会う(昭和40年)!

農産物流通の昭和後半史と私-②相対取引の提言

1.退社理由は単純ではない
 安定したサラリーマン(JA系「家の光協会」編集部)を辞めたのは昭和40年4月1日。2月5日ごろに、地区ごとに区分されていた「東北版」の農業取材のため、仙台に赴任せよ・・・の内示を受けた。これを拒否し「辞めたい」と会社に伝えたのは3月10日ごろだった。編集次長と東北のJA関係団体に挨拶に行く日だ。途中、編集局理事の家に辞表を届け、上野駅まで行ったものの「このまま挨拶に行けば引き返しがきかない」と思い、次長に告げず駅近くのホテルに泊まり、翌日は本社にも出向かず無断欠勤した。

   退社理由は、で述べた「農産物流通問題かぶれになったから」という単純ものではない。私は兄2人、姉1人兄弟の4番目だったが、末っ子として母と唯一生活し、この年老いた母を1人東京に残せない(母は気丈夫に東北に行けといってくれていたが)昭和39年に当時の12チャンネルの編集枠が「家の光協会」にも割り振られ、「新規のテレビの仕事をやりたい」と思ったが、担当枠2人の中にはいれなかった・・・こうしたことも理由であった。

まだ入社6年目の駆け出しの農業記者に、他社から声が掛かるはずもない。 3月20日ごろには独立時に配るべき「農業革命への提言」(A4の12ページ、上下段組。単行本にすれば48ページほどにすぎない)の原稿を、タイプ印刷会社を神田でやっていた従姉に渡し、印刷をしてもらった。無料の押し付け作業である。 この従姉と家の光時代に原稿を書いてもらった元産経新聞記者の松浦恵氏には一生涯頭が上がらない。松浦氏は昭和41年に独立し、「農経新聞」主幹になった。そして畜産の新聞を青果の新聞に変え、海外視察団を何十回も送り出す辣腕家だった。2~3年にわたり嘱託や正規の記者として働かしてくれた。またその後の4~8年間のなかでアメリカ視察2度、ヨーロッパ視察1度について無償(当方が松浦氏の代理案内人)や廉価で連れていってくれたのだ。

2.農業の基本的ハンディへの挑戦
   私が書いた名刺代わりの「農業革命への提言」(S40年4月10日)は、農業記者経験6年=29才の若造とすれば、農業の基本問題の分析に立ち、よく書けていると思っている。提言のポイントは・・・

       農業は広い農地や太陽エネルギーに依存し、(イ)固定資本の回転率が悪く、(ロ)作物という流動資本も太陽エネルギーの量に影響され、回転が悪い、(ハ)お天気頼みで生産不安定、(ハ)多数の分散生産・販売で、独占的販売の進む工業に比し、有利な販売はしにくい・・・これらハンディを克服しにくく、アメリカにおいても農業への補助は厚い。
   ②    だが補助金に頼っていては高い収入は実現できない。マネージメントなき農業に、マネージメントを導入すべきである。
   ③ 農業革命と言われているが、高度成長経済という外圧が見立ち、変革の担い手が生まれていない(若い人の流失)。
   ④ 米麦農業から脱皮、稲作+アルファ(青果や畜産)を育て、農業を所得的にも魅力あるものにする。これは蛋白+ミネラル農政への転換を意味し、若い変革の担い手も生む。
   ⑤ 水田や産地での飼料作物や草の生産を拡大し、輸入飼料に頼らない畜産の振興を。
   ⑥ 農業は土地依存度が高い。規模拡大と言っても、購入方式では進まないし、コスト・アップにつながる。「闇小作料を公然化し、農地の集中を図るべき」である。
   ⑦ また今後も農業からのリタイアーが増えるので、農協や専業農家による「請負耕作」を大いに推進。これが+アルファー部門の拡大にもつながる。
   ⑧ 非独占に甘んじるのでなく、品種や立地の特性を活かし、できるだけ地区ごとに独占的な地位を築き有利性を発揮する(後の一村一品運動に通じる)。
 ⑨ 生産品をストレートに市場に出すのでなく、農協は余剰分を貯蔵・加工できる施設を持ち、いまで言う6次産業化の担い手になる。具体例として、北海道の中札内農協、静岡県の庵原農協、愛媛県の温泉郡農協、滋賀県の水口町農協等の名を紹介(その後どうなったか?)。
 ⑩ 土地の桎梏から逃れるための、土地なし&土地依存度の少ない、ハウス栽培、一腹搾り(酪農)、土地なし養鶏・養豚などの肯定する必要がある。

・・・簡単にまとめにくいが、ざっと以上のような論旨である。農業者は、消費者に「農業の本質的なハンディ」を理解してもらう一方、ハンディに埋没してしまえば支持は得られない。これは今日的な課題でもある。

 3.相対取引推進の「流通センター新聞」発行
    当時の退職金は6年勤務で、たしか27万円であった。わずかだが残っていた借金を返し、固定電話を買えば、残りは20万円。すでに娘1人がいたが貯金もなし。母が大学生の下宿人2~3人を置き(幸い荻窪の自宅は6部屋)、これに助けられ、どうにか生活ができた。経済的に見れば、実に無謀な独立であった。それでも、高度成長入口の当時にあって「脱サラ」は極めて珍しく、出版社の方が訪ねて来て、荻窪の喫茶店で取材を受けた。あとで6人ほどの脱サラ体験者の取材本が届いた。

やはり雑誌記者という体験から、流通への思いを表現したいため業界新聞を作ることにした。その名は「流通センター新聞」。肉の枝肉センターがすでに設置されていたが、セリでなく解体した枝肉を業者に相対で売るのが特徴。青果物でも、既存の卸売市場のセリ取引を否定する相対取引の施設は、「流通センター」と呼ぶに値する。相対市場を形成していくべきだ・・・との主張から「流通センター新聞」とした。無料で配布し、広告で運営することにしたが、この目論見はすぐ破たんした。突然「新聞を作るから広告をくれ」と持ち掛けても、だれも相手にしてくれない。9万円ほどがすっ飛び、1回の発行で終わってしまった。

だが、無駄にはならなかった・・・相対や産地直取引きの事例記事のほか、広告を取りたいとの期待もあって、移動販売車の記事も大々的に書いた。たまたまA会社が「移動販売車」という、冷蔵車による近代的な引き売りを開始することが評判になっていた。このA社も、新アイデアだけに厚生省などの認可にてこずっていた。

政府は物価対策もあって経済企画庁に、新たに国民生活局を設け、農林省の次官候補の1人であった中西一郎氏(退官後に参議院議員に)を据えていた。この下に、後に消費者運動に身を投じ「日本のラルフネーダー」と言われた竹内直一参事官がいた。A社の社長が局面打開のため、何度も竹内氏に会っていたようで、私の発行した「流通センター新聞」を竹内氏に見せたようだ。こんなことで竹内氏から声が掛かり会うことができ、「近藤君、局員を集めるから、君の構想をしゃべってくれないか」ということになった。まさに「地獄に仏」である。竹内氏は東大法学部政治学科卒で、農水省ー経済企画庁と官僚の道を歩みながらも、43年に退官し翌年「日本消費者連盟設立委員会」を立ち上げ、49年に同・連盟を設立し代表委員になった。私に会った時から「世のため人のために行動する稀有な官僚」だっように思う。

約束の日に伺うと中西一郎局長、竹内参事官のほかに、一般の官僚も含め、計15人ほどが集まっていた。広い部屋の一隅であった。私は日ごろ考えているままを、淡々と説明した・・・「今の中央市場にせよ地方市場にしても、中心はセリ取引。貯蔵設備もないまま、全量をセリに掛ければ、ときに相場は2倍にも3倍にもなる。乱高下が起きれば、情報の少ないまま生産を調整し、さらに次の乱高下を産む。市場取引の改革をする一方、食肉センターのように冷蔵施設も持ち、ときに一部プリパッケージも手掛けるような流通センターを設ける必要がある」「相対取引が主流になれば、小売り側と産地の安定的な直取引も可能になる」と。

 私のレクチャーが、どの程度のインパクトを与えたかは分らない。しかしJA全農は、埼玉の戸田橋に昭和43年11月に、大阪府に47年11月に、神奈川県の大和市に48年8月にそれぞれ生鮮食品センターを開設した。当時、経済企画庁国民生活局は、物価対策を始め国民生活全体の安定のため作られた部局である。全農を呼びつけ、「新たな相対中心の流通体系を作れ」とか、市場関係者に相対取引の拡大を指示したことはほぼ間違いない。そして予約相対取引は、現在では主流に育っている。セリ+入札取引の中央卸売市場での比率は年々低下し、青果物の場合平成10年には49.3%になり、25年にはなんと11.6%にまで減っている。現在は予約相対の比率が88%までに達していることになる。

 なお、プリパッケーイジについては、東京神田市場の卸である日本一の東印・東京青果がナショナル・ホールセールなる子会社を設け、プリパッケージを開始したのが昭和40年か41年ごろ。早速、取材に行ったものだ。

4.産地直送ではヨーカドーの伊藤雅俊氏にも
 独立と同時に、小売業と産地との直取引の取材も始めていた。事例はすこぶる少なく、東京の新宿などげ看板が目立つ「甲信園」とか、杉並のほうの「一実屋」など、山梨と関係ある果物屋が、山梨のモモ、ブドウなどを仕入れ・販売するケースが見立ち、野菜の直送ケースはなかった。スーパーの中堅企業「エコス」を築いた、当時青果店を5店ほどを経営する平富郎氏にもその後巡り合ったが、やはり山梨の果物の直仕入れをしていた。車で行きやすい山梨に、ブドウやモモの優良な大型産地があり、取引しやすかったのが理由だろう。「お祭りや、その他の付き合いもし、人間関係を深めねばならず、安さの実現はなかなかできない」の声が聞かれた。

牛肉については、ダイエーがまだ祖国復帰していない沖縄に、アメリカの牛を入れ、沖縄日本間が無関税の利点を生かし、沖縄から輸入する・・・という形で、廉価輸入を実現し、話題をさらっていた。私はこんな時代に雑誌・商業界に出向き、お願いし「販売革新」「商業界」に産地直取引の記事を書き始めた。当時、まだ農産物の流通に通じた人が少なく、駆け出しの私にもチャンスが与えられた。「農産物の流通=暗黒大陸を切る」といったタイトルの記事を書いたのを覚えている。

いろいろ事例が少ないなかで、直取引きの願望ばかりが先行していたのだろう。当時、イトーヨーカドーの青果部長をしていた塙昭彦さん(後に中国進出の立役者。セブン&アイ・フードシステムやデニーズジャパンの代表取締役)から「産地直取引は、まだ実践するには早すぎる」の電話をいただき「一度話に来いよ」と云われ、イトーヨーカドー本社を訪ねた。入口付近で立って待っていると、恰幅の立派な方が出てこられ、「お客さん、お待ちならあちらの椅子にお掛けください」とさりげなく通りすぎたのが、当時の伊藤雅俊社長であった。あとで塙さんから生鮮センターの開所式に招かれ際、名刺をいただき「あの時の方」と気付いた次第だ。

 日本一、収益力の高いビッグストアを育てた方だが、「さすが他人への配慮の行き届いた方」と、この時以来イトーヨーカドーのフアンであり続けた。また塙さんの「産地直送は早すぎる」の提言と一致するかのように、かなり時間軸をずらして、ヨーカドーは他チェーンを大きく引き離す「顔の見える」シリーズの青果を揃えている。物価問題から入り、「産地直送で安さが手に入る」としたが間違い。生鮮のばあい「鮮度の良さ、素性の明確化、安定供給」などの総合要素がないと成立しない・・・と気がついたのは、かなり高度成長の進んだあとである。

昭和43年くらいに、某経済連の講習会に講師として呼ばれて出向いたとき、部長さんは「産直の取引量は少なく、かつ不安定。市場への供給より手間もかかり、高く売る必要がある」と、単協関係者に舞台裏で諭していた。これが当時の現実だった。いすれにしろ、収入はほとんどないが、生鮮食品(主に青果)ー価格乱高下ー相対取引による安定ー産地直送による経費縮小ー生産者団体による流通センター設置・・・という一連の提案をし、私にとって昭和40年は独立後の人生で、一番意義深い年であった。この年から、東京6市場で各50人以上集めた青果小売店対象の近代化講座の講師にもなった。




2017年3月25日土曜日

セリ取引の乱高下に泣く(昭和30年代後半)

農産物流通の昭和後半史と私-①脱サラへの道


今後の予定
日本のラルフネーダー竹内直氏と出会う
アメリカの流通視察で得たもの
青果店とのお付合いとミニFCの実践
VCのミニ・スーパーと共に10年
大規模SMとコンビニの隆盛時代に

1.農産物流通問題に引かれ脱サラ
 私がJA系の社法人「家の光協会」編集部記者を辞めたのは昭和40年、29才の時である。雑誌「家の光」はこの時、月180万部と日本一の発行部数を誇った。農村エリート向けの「地上」も発行していた。家の光協会勤務はわずか6年で、うち3年が家の光編集部、2年が地上編集部、残り1年は両者兼務であった。いずれにしても「家の光」が最ピークの年に、農産物流通コンサルタントの肩書で独立した。

 編集部の最後2年間に、1年目は「畑から台所」(昭和38年度)、2年目は「流通パトロール」(39年度)と農産物流通の連載記事を担当した。自由にテーマを選び24回連載をしたことになる。野菜を中心に農産物の暴騰、暴落がくり返され、農業者だけでなく、都会の消費者もまた泣かされる日々が続き、農産物の流通がクローズアップされていた。だからこそ連載記事を書き、挙句の果て「流通かぶれ」になり独立してしまった。

 当時の農産物流通の状況を知る手がかりが残っている・・・昭和41年6月8日の51回国会・農林水産委員会の討論内容である。

 児玉(末男)委員 「行政管理庁が5月27日に出した生鮮食料品の生産および流通に関する行政監察の結果によると、昭和35年から40年にかけて、消費者物価の値上がりについては、特に生鮮食料品が激しく、中でも野菜は97%の値上がりを示している」。

「一般の消費者物価は昭和35年に比し40年は35%の値上がり、うち生鮮品は平均56%値上がり、そして野菜は約倍(97%)の値上がり」という数字あげ、輸送費中心の質問をしている。

 小林(誠)政府委員 「野菜の小売価格は5年間で96%の値上がりですが、卸価格も95%ほど値上がり。農家の手取りと言える庭先価格も昭和39年までに約90%アップ」と説明。また値上がりの原因として、「以前と違う、単価の高い端境期の出荷が増えた」「野菜は非常に人手を要するが、都市への移動で人手不足」「流通段階でも非常に人手がかかる」と説明。また「10アール当たりの投下労働時間はアメリカに比し、露地栽培でだいたい2倍、施設栽培だと3倍、4倍」と指摘。

児玉(末男)委員 「中部管区行政監察局の追跡調査についての新聞報道では、(野菜?)小売価格を100%とすると、生産者手取りは22.6%、小売マージンが32.7%(時に66.2%?)。そして、それから中間マージンが全体が77.4%になっている。生産者価格と小売価格との格差が2~5倍にもなる」と指摘。(この数値はどこかで、メモの間違いがあると思うが、小売マージンの平均32.7%(ロスを見込んだ数字)の方は、現在時点でも通じる妥当なもの)。

2.連動していた野菜と所得の上昇
  当時、暴騰・暴落の代表格が野菜であったことは、今も変わらないように思うが、その価額が5年で1.97倍であったのは、現在と比べ「相当ひどいもの」である。総務庁「家計費調査」によれば、オール野菜の平均単価は平成21年を1とした場合、丸5年後の26年は1.10倍(38.54/35.02円-100g当たり)である。現在も上昇傾向にあるものの、当時に比べれば1/10の上昇幅に過ぎない。

当時、すでに「高度成長」の言葉が使われていたものの、ほんの入口で大卒の私の初任給は昭和34年当時12,000円(国家公務員6級職10,500円)、辞めた40年で2,5000円程度と記憶している。5年換算にすれば野菜の2倍と同レベル。野菜の上昇は「所得の上昇に連動していた」(さらには生産者の手取り増にも)ということになる。逆に他の農産物の価格はサラリーマンの所得向上に追いついていなかったとも言える。

上記、委員会でも暴騰・暴落がくり返される原因について、「生鮮品は腐りやすく、産地や市場に貯蔵機能がないまま市場販売すれば乱高下を産む」「産地がバラバラに生産・出荷していて、出荷量の全体が見えない。このため出荷量が消費量とバランスせず乱高下が起きる」との指摘がされている。これを是正するため、昭和41年に「野菜生産出荷安定法」が施行され、品目別の指定産地が決められ、「指定産地は指定消費地に生産量の1/2を出荷することにより、生産補給交付金を受けることができる」ようになった。

3.セリ取引へのメスはまだだった
 ところで当時の問題点の一つは乱高下の激しさにあった。消費者は高騰に、生産者は低落に泣かされ、そのたびに新聞に大きく報道された。当時の正確な数字がないが、中央卸売市場の取引の90%以上がセリ取引であったはず。競って商品を得ようとする場合、入荷量が20%少なければ、1.5倍の値がついてもおかしくない。逆に入荷量が20%余り気味なら、競争する必要はなくセリは成立しにくく、半値に下落しても不思議でない。だがこの時の農林水産委員会では「セリが乱高下を助長するもの」といった、セリ取引中心の市場体質について触れられておらず、ここに問題が残されていた。

 そして、どちらかと言えば、「中間流通コストが高いが、どうするか」の視点が中心だった。つまり包装手段、輸送手段、産地や消費地の貯蔵施設、流通に関わる人の人件費高騰といった点だ。このため輸送については41年の委員会では、鉄道輸送が中心的に議論されたが、トッラク輸送にまだ言及されていない。貨車に乗せ、貨物駅でトラックに乗せ換えて市場に運ぶ。このため時間も手間もかかり、鮮度も低下。迅速な市場相場への対応も困難・・・という不合理性にもセリ取引同様に、気付いていなかったように思う。また、中間流通のコストカットや高鮮度確保のための「産地直取引」という概念についても、まったく言及されていなかった。

鉄道輸送中心の議論は、当時まだ高速道路が全く開通していなかったことと関係する。高速道路が確立すれば畑から市場への直送体制ができる。昭和31年「ワトキンス」という調査団が来て、「工業国でありながら、日本は道路網の完備をまったく無視している」とし、高速道路公団が同31年に発足、実際に初の高速である名神高速道路(75km)が開通したのが昭和38年である。

4.興味は都市のスーパーや消費動向
   私は消費地の東京神田の生まれながら、農工大学農学部卒である。生産から消費を同時に体験できる立場にあった。このため「暴騰・暴落に泣く生産者と消費者」の現実に、興味を持って当然である。2つの連載を通じ、群馬県のキャベツの大産地「嬬恋村」や、当時すで6次産業化を達成していたポンジュースの愛媛青果連、北海道の中札内農協、静岡の庵原農協などを訪ねた。生鮮品の場合、加工というクッションがないと、全量出荷し価格の乱高下を招くと考えたからだ。また食肉については、相対取引の新潟県内の枝肉センターを訪ねた。セリ万能時代に新風を吹き込むと見たからである。

だが興味は都市部の動きだった。当時すでにダイエー、ヨーカドー、ジャスコ、ユニーなどのビッグ・ストアのチェーンが全国展開し、関東では西友ストア、東急、京王、小田急、東武など電鉄系のスーパーが多店舗展開。私は農業記者の立場で、東急ストア本部や「いなげや」、当時あった「しずおかや」、高級スーパーの青山の「紀ノ国屋」、対面販売だが、強力な生鮮の販売力を誇る四谷3丁目の「丸正本店」などの本部を訪ね、主に青果の担当者に会い、仕入れや販売の実態を農家の人に知らしめるために報道した。消費者について理解を深めるため、消費科学連合会の三巻秋子氏との面談記事も書いた。

当時の消費実態はどうか。独立時の昭和40年4月に名刺代わりに「農業革命への提言」なる小冊子を配った。冊子では、「先進国では澱粉系(麦、米等)、蛋白系(肉、牛乳。乳製品、鶏卵等)、ビタミン系(野菜、果物)の食品が1対1対1の割合で消費されいるが、日本は澱粉系52.0%、蛋白系19.5%、ビタミン系17.5%、その他11.0%で3対1対1に近い。例えば蛋白系の肉の年間消費量は1人9kg(昭和39年)に対し、西ドイツは約7倍の61kg、イギリス約8.5倍の90Kg、鶏卵も2倍近い水準。ビタミン系の野菜は日本の場合、1人年97kgの消費で先進のトップグルーに近く、アメリカは96kgだった。果物は30kgでアメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスの約2/3」としている。ただし野菜はダイコン、ハクサイなどの澱粉系が多く、ビタミン系の消費急増もあって、価格が急騰したように見られる。鶏卵はこの時期すでに大規模化が進み、「物価の優等生」と言われ続けてきた。

   小冊子では、「蛋白・ビタミン農政に転換することが、物価問題の解決につながる。それには米麦中心の米価審議会を止め、農業総合構造・物価審議会に換え、需給バランスを政治的に作り直すべきだ」と提言している。大海に投げた一石に過ぎず効力なし。米麦中心農政は今日まで続いてきたといえる。

   時代は飛んで、最近(平成29年3月28日)になり、JA全農は事業計画の基礎になる改革方針を発表した。これによれば、農産物を小売りに直接販売する方式について、
①米の直売比率は全量の4割だが、これを平成36年までに9割にする。
②野菜や果物は現在直売比率3割を36年に5割強にする。
・・・生協の共同購入が進んだり、農産物直売所が登場したりで、消費地ー産地直結の取引も、上記のように米で4割、野菜・果物で3割と伸びてきたのだが、昭和40年時点では、これらはゼロに近かったのである。

2016年12月2日金曜日

「陽子ファーム」(所沢市)は有機の里・・・観光農園や宅配

平均的な農家の有機挑戦

(本文は原稿用紙に縦書きされたものを、横書きに直したため、数字の書き方が従来と異なります)


 所沢市のはずれに「城(しろ)」という地名がある。すぐ南は東京の清瀬市、東は新座市に接する。地名通り、ここには一一八〇年(治承四年)ころに築かれたという伝承の「滝の城」があった。「土豪が源頼朝の挙兵に呼応して築城したもの」とされるが、正確なことは分らない。平地に聳える高さ三十メートルほどの丘の上に築かれたもの。深い堀のようなものが渦巻状に本丸跡を囲み、小規模ながら守りの堅さが伺い知れる。 

この城址の頂上部から見下ろせば、所沢市の畑作地区が拡がり、あちこちとビニールハウスの集団が銀色に輝いている。今回紹介の「陽子ファーム」のハウスも含まれる。昔は稲作も結構行われていた地区という。柳瀬川という川に沿い、一〇キロも離れた狭山丘陵下の西武球場当たりまで田圃が伸びていた。夏場は田の水が蒸発し雲が発生、たびたび雷雨に見舞われたという。

「陽子ファーム」は、推察される通り主婦の池田容子さん(六十五才)が中心になって経営する農場である。いま女性の地位向上が叫ばれ、女性起業家も急増中だが、三十五年も前から市役所に勤めるご主人の佳弘さん(六十五才)に代わって、有機無農薬農業を進めてきた有名な方だ。久しぶりに奥さんに会って、頬に張とツヤがあるのに気付いた。奥さんに「三十代の肌ですね」と本心で申し上げた。有機農産物を日々賞味している賜物と思う。
<写真>ブルーベリー
を背景に 池田容子さん
「滝の城」は石垣が見られず、土塁で固めた城だが、陽子ファームもまた「通気性、透水性にすぐれ、腐食物の粘液で団粒構造になっている豊かな土」の上に築かれ堅牢な城のように感じる。環境にやさしく、食の安全第一の農法なので、多くのボランティアや顧客に支持され、野菜のこだわりを求める市民やレストランへの宅配、観光農業、体験教室、ジャムほかの加工や販売・・・と、多方面に進出し成果をあげてきた。

屋敷は、比較的車の往来が少ない街道に面している。街道沿いの長い塀の一部には観光案内のため「ブルーベリー狩り 無農薬有機栽培野菜・果物直売」とペンキで書かれた看板が出ている。
<写真>道路に面した観光農場の看板
現在の「陽子ファーム」は本人、ご主人、息子さん、パート実質三人(主に配送業務)の陣容で、実習生も〇~二人と補助に入ることも。耕地は普通畑一・八八ヘクタール(うち果樹〇・三七ヘクタール)。この面積は北海道を除く全国平均の一・八ヘクタールと一致する。作付面積は野菜では葉菜類七〇アール、根菜類五六アール、果菜類四一アール、果物ではブルーベリー三〇アール、他果実七アールである。

屋敷続きの農地にもハウス四棟があるが、ハウスの総棟数数は十一棟である。一棟の面積は小型が九七平方メートル、大型が二八八平方メートルといったところだ。ブルーべリーなどもハウスで栽培されている。

畑は車で二十分もかかるところにまで広がり、分散しているためや、無農薬のため雑草や害虫との闘いもよせねばならず、作業は楽ではない。

容子さんは昭和二十七年に城に近い所沢市中富の農家の長女として生まれた。高校時代はバレーやソフトボールもやる活発なお嬢さん(結婚後のママさんソフトボールの県大会で優勝)。二十三歳の昭和五十年にお見合いで結婚。ご主人はクリやサトイモを作る農家の後継ぎだったが市役所勤務・・・典型的な日曜百姓の一人だった。
「農業を手伝わせないから嫁に来てくれ、と言われ結婚したものの、実際は嘘だった」
奥さんの言葉に、隣に座るご主人も笑って応じる仲の良さ。高度成長時であれば、サラリーマンの奥さんは専業主婦になることが圧倒的に多かった。正直、多くの女性の例にならい、専業主婦にあこがれていたとしても不思議でない。

このため奥さんは結婚当初、着物の着付け教室を開いていた。しばらくして義父に「農業を手伝って欲しい」と云われ、少しずつ手伝うようになった。義父が高齢であれば、手伝いを求めるのは当然といえる。初めはいやいやながら手伝いだった。昭和五十一年に長女を出産、さらに二年経ち五十三年に長男が生まれた。ところが長男の尚弘さんは生まれて間もなく、軽いアトピー性皮膚炎になる(これは二年ほど続く)。

義母も病気勝ちだったので、「家族の健康のため何かできないか」と考え、有機農業に行き着いた。だが義父からは「無農薬では野菜を作れない」と反対もされた。これまで農作業で失敗を重ねてきたことも背景にあった。これを機に、奥さんは本気で農業に、そして有機栽培に取り組むこととなった。

自然循環型エコ農業の地
有機農業を奥さんが目指すようになった理由の一つが、生まれが「中富」だったこととも関係する。約三百年前の元禄時代、川越の藩主の柳沢吉保がいまの川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町にまたがる新田開発を行い、この地域を「三富(さんとめ)地区」と呼んだ。中富はその中核地区であった。三富農業の特徴は、一区画の幅七二   メートル、長さ六七五メートルの超長方形の畑を挟み、ケヤキなどで囲まれた屋敷と、人工の雑木林を両端に配置。雑木林の落ち葉を堆肥とする自然循環型の農業を目標にしてきた。いまでも屋敷内の林地に高さ一・五メートル、横十メートルもの落ち葉が積まれ、切り返しで堆肥化が図られている例を見る。奥さんは循環型農業を見て育ったのだ。

<写真>三富地区の雑木林(これは手入れのゆきとどいた例) 


JA系の「現代農業」(農文協刊)には、豊富に有機農業の記事が出ており熱心に読む一方、二年ほど経って日本有機農業研究会に加入し、勉強会にもしばしば参加した。有機農法といっても①減農薬・減化学肥料栽培、化学農薬・化学肥料の量を慣行農法の半分以下に持って行く特別栽培(各県で基準示す)、③三~二年以上の無化学肥料・農薬期間を経て国のJAS認定が可能になる有機栽培、④体に良くない硝酸態窒素を植物の体内に取り込むのを抑え、かつ省力にもつながる自然農法まである。

アトピーの原因物質は一部の食品も対象だが、実際はホコリとか化学物質が原因の場合も多い。またアトピーを治すには、緑黄色野菜が有効とされている。奥さんが目指したのはこうした野菜を中心に、果物も加えた完全な③有機栽培だった。しかし近年は堆肥作りも省力な方法を採り、雑草や作物を刈り取りそのまま放置、これで次なる雑草の発生を抑えるといった④自然農法に近い有機栽培になっているという。

堆肥の中心素材は落ち葉であり、落ち葉の給源のクヌギやコナラの雑木林は、当初約十四アールしかなかったが、友人から雑木林を借り、現在は一三〇アール(一町三反)まで拡大している。昭和五十八年ころからはボランティアの協力を得て、落ち葉きのイベントを始めた。一月に二週に分けて土・日曜を選んで二回来てもらい、赤飯、けんちん汁、野菜の煮物などで野外パーティ。好評で落ち葉きのボランティアが増え、林地の拡大が可能になった。なお翌年から、野菜の収穫体験の「芋煮会」も開催するようになった。

ところで堆肥を作る方法だが、当初は落ち葉にヌカやオカラなどを混ぜ完熟させるのが主流。オカラは県外の知人に分けてもらっていたが、近年は資源リサイクル法ができ、県外から入れることが困難に。ヌカも米作農家が減り、貴重品となり使えなくなった。

最近の堆肥の作り方は、落ち葉を集め林地に丸一年置いておくだけ。林地に住む菌が自然に発酵を助け、完熟堆肥になる。これを畑に運び三ケ月ほど置いてから散布する。「林から畑への移動が切り返しにつなり、別に切り返し作業はしてない」とのこと。

ヌカやオカラに代え最近は木材チップやもみ殻を使うが、落ち葉に混ぜ込むのでなく、畑に撒いて使えば済むそうだ。また輪作を採用。ソルゴーや小麦を植え、これを鋤き込んだり、雑草や畑に残った野菜も鋤き込む。

陽子ファームはこうした対応を三十五年前から実施してきた。完全に化学肥料ゼロ、化学農薬ゼロの農業である。普通ならば「有機農産物」の有資格者だが、JASの有機認定は受けていない。「一回、認定に必要な見積もりを頼んだとこ、百万円以上でびっくりした」とのこと。多数の圃場で、多数の品目、しかも野菜と果物を作っているとなると、それぞれの検査費用が加算される。加工も別建ての計算である。陽子ファームの経営形態では、楽に通常の三~四倍も認定費用がかかってしまう。

陽子ファームの場合は、こだわり志向の生活クラブの会員個人やレストランから、「素晴らしい。分けてくれないか」と頼まれ供給が進み、あえてJAS認定をとらなくても良かった面がある。

宅配や観光園に活路
日本における有機JAS認定圃場面積は全耕地面積の〇・二%と少ない(この他有機志向の圃場が〇・一五%)。有機の面で遅れているアメリカが〇・四%だが、進んでいるイタリア八・六%、ドイツ六・一%、フランス三・六%に遠く及ばない。

消費者の皆さんに理解を得て置きたいのは、日本は多雨で湿度も高く、病気や害虫が発生しやすい。このため便利な農薬を使いたくなる。年平均雨量を見ると、日本を一〇〇%としたときアメリカ四二%、イタリア三七%、ドイツ四一%、フランス五〇%といずれも半分以下なのだ。ヨーロッパ諸国は酪農や肉牛肥育も日本以上に盛んで、牛糞や鋤き込み用にもなる牧草、麦わらなども豊富なこともある。有機栽培をしやすい。

さらに有機栽培は慣行栽培に比べ労力がかかり、売価も高くなり消費が拡大しにくい面がある。農水省の野菜十一品目の調査によれば、慣行栽培の平均一・六八倍の価格になっている。陽子ファームで、ご主人や親戚の無料報酬の労力を折り込むと、ブルーベリー栽培では、確か慣行栽培の二倍前後の労力費になったと記憶している。

いずれにしても、平均規模の農家では費用対効果を考えてJAS認定を受けず、「隠れ有機栽培」を通すケースが多い。これは問題だ。検査技術も進んでいるので、行政も新しい制度、費用を打ち出すべきである。認定費用が安くなれば、有機栽培の普及や技術革新も進み価格も下がる。所得面でエリート層に当たる人だけでなく、広く普及する。

陽子ファームは、普及しにくい現状に手をこまねいていたわけではない。安全面でのこだわりを持つ生協に加入する市民、そしてレストラン等へ販路を広げた。それだけでなく、観光農園、収穫体験13教室、ジャム・漬物・菓子等の加工と、付加価値の取れる分野に進出してきた。

計画的にキューイフルーツを栽培し始めたのは昭和五十五年で、実際にキューイの観光農園を開いたのは昭和五十八年である(これは虫害が拡がり平成十六年には閉園)。筆者は九年前に、ブルーベリーのシーズンに初めて訪問した。開園期は六月下旬から八月上旬。ハウスの対象面積一四アール。入園料一人千円+消費税で、二〇〇グラムを顧客に差し上げる仕組み。入園管理の小屋には野菜や果物を混ぜたクッキーなども多数置いてあった。このときブルーベリー栽培の苦労を十分に聞かしてくれた。

ハウス内に虫が発生する頃には、カマキリの卵(泡状)を子供さんに集めてもらい、ハウスにカマキリを増やし、害虫を食べてもらうのだ。だが鳥のセキレイが増え、カマキリの卵がなかなか手にはいらない。このためピンセットで害虫を一匹、一匹取るのだ。市役所勤めだったご主人も出勤前のひととき作業を手伝い、親戚の二人にも手伝ってもらっていた。同時に畑の野菜の作業、宅配の発送準備もあるから、人手はいくらでも不足の様子だった。

手際の良い野菜宅配体制
屋敷内に宅配の作業場もある。ここでは  週四日間、各日二人のパートが働いている。段取りが良く、ヤマト運送と提携して注文主の住所、氏名、電話等を伝票に印字してもらう。これを発送日別の引き出しに保管。当日になると取り出し、奥さんの指示で必要品目を封入する。合わせて消費者の方とのコミュニケーションを充実させるため、A4一枚に農場の近況、出来不出来の状況、今回送付の商品名(七品~九品)などを記入した簡易チラシも入れる。すべてホームページを通じ、ネット上で注文が可能になっているのも特徴。信用第一で、間違いの起きないシステムが構築されているな・・・と感心した。
<写真>野菜の宅配の作業場
現在宅配ルートに乗っている顧客は埼玉、東京、千葉、神奈川などのレストランとの契約販売が二十ケ所、一般家庭が約九十~百ケ所、計百二十か所近い。業務筋には月四回、一般家庭は週一回から月一回届ける。家庭用のセットは税・送料込み三千円である。詳しくはホームページを見るのが早道だ。

季節の野菜を豊富に揃え、珍しさを付加するため、現在では西洋菜、中国菜、伝統菜まで入れ約百種を栽培している。最初に訪問したとき、「作物ごとの栽培面積を出してくれないか」と頼むと、奥さんは約一時間掛かったと思うが、野菜五十五品、果物八品についてアール単位の面積も書き出してくれた。奥さんの頭の中には絶えず圃場ごと、季節ごとの野菜・果物の様子が刻まれているのだな・・・とこれまた敬服したものだ。

ところで国の施策として平成二十三年に農業の六次産業化がスタートした。生産の一次、加工の二次、販売の三次の総ての数字を足すと六次。三つの一体運営で付加価値をつけて農家が売るが六次産業化である。奥さんはこれをはるかに遡る平成十七年(二〇〇五年)に「陽子ファーム」の名を採用し、ジャム加工に乗り出していた。夜なべに一人で、普通の鍋を使い果物や一部野菜を煮て、これを瓶に詰める作業をしてきたのだ。魂を注入しての美味、安全なジャム作りをしていた。当時はブルーベリージャム二〇〇グラムの丸瓶が税込み七百三十五円の売り値だった。

 私はできる限り正確な原価を割りだすことに努める一方、スーパーやネット上の売価も徹底して調べ、奥さんに「原価が七百二十三円かかっています。これでは全くの赤字ですよ」と申し上げた。このあと平成十九年にはやや小規模だが、陽子ファームは敷地内に小規模な加工施設を設けた。

賢く、かつセンスもある奥さんだった。しばらく過ぎて伺うと、そこにあったのはジャムの八角瓶だった。レッテのデザインに英文字も使われ、ネーミングもジャムでなく「コンフィチュール」となっていた(これはいまジャムにもどされている)。そして瓶の容量は一四〇グラム、価格は税込み八百六十四円に生まれ代わっていた。商品化のセンスには素晴らしいものがあり、だれも驚くはず。
<写真>各種のジャム
ジャムほかの瓶詰めのアイテムも豊富だ。ジャム類はブルーベリー、いちじく、キュウイ、ルバーブ、ストロベリー、かりん、夏みかん・・・があり、総て一四〇グラムが税込み八百六十四円に統一されている。この他トマトペースト二〇〇グラムも八百六十四円、ナスのオイル漬けは大瓶一千二百九十六円である。

宅配等の注文は「陽子ファーム」のフォームページ参照

電話での商品注文は 04-2944-2681

住所:所沢市城509

2016年3月15日火曜日

ジャージー酪農と神津牧場ー:鈴木慎二郎氏偲ぶ!

草地酪農を追求し続けた故・鈴木慎二郎氏
    大学時代の友人・鈴木慎二郎氏(同じ研究室)がこの1月に急逝した。彼は農工大学農学科を卒業後、新冠種畜牧場、北海道農業試験所、那須の農水省草地試験所をへて定年後、群馬県の神津牧場場長となり、酪農に関する飼料作物や草地研究の道を歩いてきた。農学科内ではトップの成績で、人情味あふれたナイスガイであった。元気な日常生活を送るなかでの急逝で、残念でならない。
写真① バンビのように可愛いジャージー牛

 彼は、2015年8月に自費出版した「草地酪農半世紀」-神津国太郎の意志をつなぐーを世に残してくれた。特にサブタイトルからも推察できるが、ジャージー酪農の神津牧場の記述が、214ページ中90ページに及ぶ。記述の最後に彼は「ジャージーのような小型で飼料利用性の高い乳牛は、日本のように傾斜のきつい山国で、酪農を行うのに適していると思う。飼養に当たっての基本は、神津邦太郎がすでに明治期に示しており、その遺志を継いで事業を行うことが、飼料自給問題解決の一つの道と信じる」と述べている。

 さらに「山間の水田は不耕作のまま放棄されている。第二次大戦まで軍馬の生産に充てられてきた牧野が100万ヘクタール近くあった。また旧薪炭林林と言われるものも数百万ヘクタールある。これらの一部はすでに山林原野に還っているものも多いが、将来の食料問題を考えるならば、家畜の生産に活用できると考える・・・奥山に生産活動を行う牧場があれば、周辺の集落にも安心感ができ、地域の活性化にも役立つと思う」と結んでいる。
写真② 優良牛(鈴木氏の年賀状から)

 私がジャージー牛に出会ったのは60年まえほど前。八ヶ岳山麓を訪ねたときだ。その後は10年前に故人が場長の時代に神津牧場を2度訪ねた時くらい。それでも、乳脂肪率が5%と高いジャージー牛乳が気がかりで、紀ノ国屋、明治屋など高級スーパーを回り、どの程度の値で売られているかチェックしたものだ。

 神津牧場がジャージー牛を古くから選定してきた理由は、「乳期(長い)、乳量、乳質、飼料の利用性、取り扱いの良さ、健康、遺伝力、そして継続性ある酪農経営が可能なこと」と彼は指摘している。ホルスタイン成雌の平均が体重650キロ、体高141cm、乳量年間5,000kg(最近平均8,600kg)、乳脂率3.6%、無脂固形分8.7%に対し、ジャージー成雌のそれは400kg、130cm、3,500kgほど(神津牧場平均5,548kg)、5%、9%で、体形が小型であり、乳量も少ないが乳脂肪や固形分が多いのが特色である。

小型で蹄も強いので、傾斜地を移動することが楽にでき放牧に適している。彼の記述によれば神津牧場では100haの草地があり、うち約80%を放牧に充ててきた。冬場は畜舎飼いだが、春から秋は放牧。搾乳牛の放牧は4月中旬から始め、5月の連休後は昼夜放牧となり、夜間も野で過ごす。職員は朝5時に放牧地まで迎えに行き、朝8時前後までにミルキングパラーで70~80頭の搾乳を終える。再び別の放牧地まで牛を追い放牧。午後1時になると迎えに行き、牛舎に戻ってから補助飼料を与えたあと、午後2時半から搾乳し5時前に終える。再び別の放牧地へ牛を追って行き翌朝まで放牧する。・・・・この通りで、春~秋は放牧で手間も濃厚飼料も大幅に削減できるのが特徴である。
写真③ 草地での放牧風景(鈴木氏の年賀状から)

 彼の提案が妥当性を持つことは、他の研究者によっても古くから証明されている。例えば昭和54年に当時の岡山酪農試験場の三秋尚氏が書いた「ジャージー牛飼養と飼料作物」を見ると、ジャージー牛は・・・
    飼料中の栄養分を牛乳や乳脂に変える割合が高い。
    基礎資料(粗飼料)をよく食べ、よく利用する。
    以上の利用率の高さを生かし、良質な基礎飼料を充分に与え、高い能力を発揮させる。
    基礎飼料の質の向上と増供与によって、泌入乳量を増やすほうが、濃厚飼料の増給与よによる効果より経済的である。
    ジャージーは体格が乳牛中で最も小さく。維持飼料が少なくて済む・・・ホルスに比し一般に養分総量(TDN)は1/2、可消化祖蛋白質量(DCP)は1/3ですむ。
    体が小さく軽快で、蹄が丈夫で、機敏性に富み、30度前後の急傾斜地の放牧に向く。
    早熟で利用年限が長く、乳牛の償却費の節約になる。ただし良質な基礎飼料と十分な運動が条件。
・・・と主に飼料面からの特徴が整理されている。

 今年は地方創生元年と言ってよい。耕作放棄地がすでに40万ヘクタールもあり、ほっておけば中山間地区の荒廃が進む。人力の不足するなか、広範囲の山間地をカバーする農業となるとやはり放牧中心の酪農となる。多くを草地化し、一部水田には飼料稲やトウモロコシを栽培して濃厚飼料に近いものも確保する。一方で6次産業化として生乳工場、バター、チーズ、ジェラード、アイス、プリン、洋菓子などの加工場を持つ。そして逆に中山間地に多い「道の駅」に地域特産品として供給する。また牧場自身が牛とのふれあい、農作業や加工作業の体験の場とし、観光地に成長すれば、地域の雇用もさらに増える。神津牧場に行けばそのモデルをつぶさに見ることができる。現に神津牧場は地元「下仁田道の駅」に、鈴木氏の主導で別会社を作り、ソフトクリームほかのカフェを経営し、10年近く黒字を続けてきた。

2016年2月16日火曜日

中小企業診断士の鏡-故・橋本文夫先生を偲ぶ

    農業経営診断を皆と体系化

   中小企業診断士の全国横断的な「一般社団法人・農業経営支援センター」という組織がある。私も発起人の1人となり、平成17年7月に結成され、全国100人ほどの会員を擁する農業コンサタントの集団である。その初代会長(当初は任意団体)であった橋本文夫先生が今年1月13日に急逝された。

橋本先生はNCR勤務15年、コンサルタント事務所運営45年を通じスーパーやショッピングセンター、直売所、レジャー施設、飲食業等の経営戦略や開店の実務指導を数百件もこなし、NCR時代には部下の教育も担当し、独立後は診断協会の静岡県支部長、診断協会の理事も歴任され、経営学や診断学の王道を歩んでこられた。実際、下記のとおり数々の表彰を受けている。

橋本先生の表彰歴

表彰年
賞名
昭和58
静岡県知事賞
平成元年
中小企業診断協会静岡県支部長賞
(支部創立30周年記念)
平成5

中小企業診断協会会長賞
平成6
中小企業庁長官賞
(中小企業基本法施行30周年記念)
平成8
中小企業庁長官賞
(全国中小企業診断大会にて)
平成10
通商産業大臣賞
(中小企業診断業務)
平成11
静岡県商工会会長賞

平成16
通商産業大臣賞
(経営診断及び助言)
平成16
静岡県宅地建物取引業協会会長賞
(会の運営と業界発展向上に貢献)
平成18
中小企業診断協会会長賞
(分科会シンポジューム)
平成19
中小企業診断協会会長賞
(中小企業の強化推進に貢献する多くの論文発表)
平成21
中小企業診断協会会長賞
(創立55周年記念・中小企業診断士の地位向上に貢献)
平成21
中小企業診断協会静岡県支部長賞
(30年以上支部の発展と地域活性化に貢献)
先生の偉大さの第1点は先見性である。「地域活性化には、農村・農業の近代化が必要」と、今日的なテーマの「地方活性化-地方創生」にいち早く着目され、農業経営診断を平成15年くらいから始めれれ、平成17年7月に農業支援センターを誕生させたことである。私は、この農業経営支援センター結成時に先生と出会い、10年半ほどご指導を受けた1人である。
写真① 中小企業診断協会会長賞の授賞式(H19年)の橋本先生

第2の偉大さは、「経営診断のノウハフは、個々のコンサルタントの頭の中にしまい込むのではなく、マニュアル化という形で誰もが利用できるようにしてこそ価値がある」と、マニュアル作成を推進したことである。支援センターの結成以前の平成16年3月に「農業経営診断実務マニュアル」~経営診断手法入門~(社団法人 中小企業診断協会出版)を、10人ほどの仲間と完成させている。決して農業分野だけでなく、副題の~ ~にあるように、あらゆる分野の診断手法に通じるものである。

支援センター結成後も、絶えず10人ほどの関心ある仲間の知見を結集し、平成18年2月に第2集の1と2、19年2月に第3集と「農業の診断・事業計画策定事例集」を完成させた。診断協会の財政支援によるものである。第1集~2・3集その他の総ページ数は1100ページほどの膨大なもので、いまも多くの支援センター会員の書架で、いざという時のバイブルとして輝きを放っている。

















写真② 先生が監修された全5巻の農業経営診断マニュアル

実際の農業者からすれば、あまり関係のないことと映るかもしれない。しかし、経営近代化には第3者の客観的なアドバイスも不可欠である。このアドバイスが不適切であれば経営は混乱し、発展するものも逆に壊れてしまう。

先生の偉大さの第3点は、じっくり聞きとり調査をし、「経営の一断面で捉えるのでなく、経営の基本理念の妥当性、財務、生産、販売、労務にわたる総合力を重視した」ーその姿勢である。全体像を正確につかみ、長所・短所、社会への適合性も見極め(swot分析)、改善点を導きだす、極めて綿密な診断である。農業者の皆さんは「費用がタダだから」と行政庁の補助金による数時間の簡易な診断・報告を望むことが多い。これでは、役立つ方向性をなかなか得られないことを知って欲しい。
写真③ 富士宮市での6次産業化研修会の生徒と共にー前列左から2人目

橋本先生は診断一般で終わらず農業部門ごとの経営・生産・販売、そして経営指標にも踏み込んでいる。マニュアル第2集-2では、稲作、麦作、野菜作、酪農、肉牛、養豚に切り込み、特に野菜作ではハウス、溶液、水耕、植物工場についてまとめ、第3集では花き、果樹、きのこのマニュアルを監修した。第4集では別の角度で、事業計画の策定を監修した。もし農業者の方で、部門別の実務マニュアルが学びたければ、当方にメールをしてほしい。部門に詳しい会員を講師として派遣することも可能である。

先生の偉大さの第4点は「企業は人なりのマンパワー」の重視である。診断の入り口で、「経営者の自己診断表」を提示していることだが、これは①経営者、②経営の基本、③販売管理、④生産管理、5労務管理・・・について10要素を上げ、5、4、3、2、1の5点法で自己採点してもらうもの。これにより経営者自らが強み・弱みを自覚し、自ら改善することを促すものである。これは申込んでいただければお送りする。 当方メール mkondou@vega.ocn.ne.jp 

 先生と一緒に関東某市の農産物直売所設置のコンペに臨んだことがある。この時、市の幹部から最後に「直売所設置に当たって、最も重視することは何か」との質問があった。先生はためらいなく「店長の人選ですよ。安易に(定年退職まじかの経験も知見もない職員を連れてくるようではだめ)」と言いきった。相手は厳しい意見に面食らったように思う。地元の浜松でレジャー施設を作る指導の過程でも、まったく同じ指摘をしたことを後で知ったが、マンパワーの大切さを極めて重視する表れである。数百店の専門店、スーパー、ショッピングセンター、飲食店、レジャー施設などの、事業計画策定だけでなく、施設設計、レイアウト、商品配置、従業員教育等の実務指導までやり、その中で得た哲学と思っていただきたい。


弔辞

平成二十八年二月二十八日   ヤマハ元会長 中小企業診断士   岸田勝彦                

去る一月二十八日、西部地区診断士同友会の北村勝利会長よりご連絡が入り「中小企業診断協会 静岡県支部長をつとめられた橋本文夫先生が一月十三日にご逝去された。ついては橋本先生の薫陶を受け、お世話になった関係者でお別れの会を開くことになりましたので、その席上岸田さんに是非とも弔辞をお願いしたい。」との事でした。

生者必滅が世のならいとは申せ、実戦的な経営コンサルタントとして、中小企業診断士として、静岡県はもとより全国的な広がりでご活躍され多くの功績を残されてこられた橋本先生の訃報に接し、私自身心の底からご尊敬申し上げていた方だけに大変落ちこんでしまいました。同時に橋本先生の持ち前の懐の大きさ、真のプロフェッショナルとしての深い見識と熱き魂にふれてこられた多くの優秀な中小企業診断士の先生方をはじめ、立派な知人友人を差しおいて私が弔辞を述べさせて頂くことの是非について瞬間的に悩んだ訳ですが、橋本先生をご尊敬申し上げていた後輩の一人として誠に僭越ながらお別れのことばを述べさせて頂くことになりました。

ところで私は中小企業診断士としては やや遅咲きの部類に入るかと存じます。つまり一九九年末、会社に於いて事業部を担当していた私は与えられた職責の大きさと、自身の実力との間にギャップを感じ、ジェネラリストとして更なるレベルアップを目指し中小企業診断士受験講座という通信教育をスタートしました。49才の時です。

一次で一回、二次で二回失敗して、後がない状況の中で必死の思いで追いこみに入っていたある日(1995年)、静岡新聞紙上に写真入りで中小企業診断協会静岡県支部長に就任された橋本先生のかなり大きな紹介記事が載っており、それを読み橋本先生の人となりとお考えに感銘を受けた

私はそれからというもの一段と受験勉強に熱が入り、翌年四月には晴れて中小企業診断士として登録されました。以後このような経緯から橋本先生の一言一句、一挙手一投足に耳を傾け注目して参りました。

私は製造業という限られた領域の中で、ビジネスパーソンとして生きて参りましたが、橋本先生は、皆様ご存知の通り地域、業界、業種のカベを超越して多分野に亘り、広く深く見識と手腕を発揮されて参りました。ショッピングセンターなど商業分野に於ける県内第一人者の枠内にとどまらず、農業経営分野に於ける経営コンサルタントの先がけとして静岡県の農業を全国トップクラスに押し上げた最も影響力を発揮した一人に数え上げられるのではないでしょうか。

ところで、現在の我国経済をとり巻く内外の環境はグローバル化の荒波の中で、益々不透明感が増し、各企業にとりましても受難の時代といわれます。このような時代背景にあって常に羅針盤の如く明確に方向性を示された橋本先生を失ったことは、日本経済並びに静岡県経済にとって大きな損失と申し上げても決して過言ではありません。又、私自身にとりましても私が思い描く経営コンサルタントとしての理想像であり、私が到達したい人生の目標像であり続けた橋本先生を今こうして失い正に痛恨の極みであります。

結びになりますが、橋本文夫先生のご冥福を本日ご列席の皆様方共々お祈り申し上げますと共に、ご遺族の皆様のご健勝とご多幸をお祈りしお別れのことばとさせて頂きます。