2017年6月22日木曜日

杉並区天沼物語ー野際陽子さんも住んだ土地

1.「ご対面」の相手はクラスメイト

 亡くなられた名女優・野際陽子さんのご冥福を心から祈りたい。野際さんと農業・商業との関係は薄いはず。だが私はいま終活のため、本ブログで「農産物流通の昭和後半史と私」を連載中。自分史のなかで野際さんが少女期を過ごした東京都杉並区天沼のウエイトは高い。なにせ私も0才から49才まで過ごしたのである。野際さんとの接点と言えば、①小学校の同学年生である。中学3年のクラスメイトであった浅賀隆君(故人)が、昭和30年代後半頃と思うが、テレビの野際さんとの「ご対面コーナー」番組に出た、③姉が立教女学院中等部、高等部の野際さんの3年先輩であったこと・・・の3点ほどに過ぎない。  

 私が杉並第五小学校の6年4組、野際さんは6年3組。壁一つ隣で学んでいだのだが、野際さんの動向はまったく記憶にない。だが、フランス人形のように瞼が大きく開閉し、日本人離れした美しさ、成績も優秀・・・こんなわけで野際さんは学年を超えた憧れの君であった。6年3組の友人(小・中学時代)に聞くと、野際さんが有名人になり忙しくなる前の昭和期には、クラス会にもよく出席し、野際さんの経営するレストランでもクラス会が開かれたこともあるという。なお小学6年時の話に遡れば、男女3人づつの遊び仲間で、石神井公園(後記)にボート漕ぎに行ったり、クラス会として高尾山にハイキングに行ったり、一緒にドッチボール、ソフトボール、けん玉、おはじきなどをした記憶が鮮明だと言う。美と知だけでなく、気取らない庶民感覚の人柄で、みんなに愛され続けたことは間違いない。 

ここでは故人の御威光を借り、荻窪駅北手の天沼を全国に紹介したい。野際さんが少女期を過ごした町の環境が少しでも伝われば幸いである。後半は私の自分史に近いが、裕福さと貧乏の同居した歴史を持つ変な母子家庭に育ち、秀才だった兄2人、姉1人と異なり、末っ子としてより自由奔放に天沼の枠を超え、広い空間で遊んだ。これが成人し、29才で脱サラして独立独歩の人生を歩んだ原因と思っているし、天沼を越えた周辺部を語るにふさわしいとも思っている。。

  
ネット情報によれば、「江戸時代は多摩郡天沼村で、寛永12年(1635年)に日枝神社(赤坂の?)の社領になった」とある。また天沼の語源は私が後で推定した通り、地元にある弁天池が沼地をつくり、「雨沼」と呼ばれていたことにあるようだ。天沼は大正12年(1923年)の関東大震災のあと、住宅不足を補う地区として急速に宅地化が進み、軍人が大挙押し寄せたと聞く。私が小学校のころはあまり軍人さんを見かけなかった。ただし、小学3年のとき集団疎開で姉と長野の別所温泉に出向いたあと、母は近くに住む小沼さんという軍人を下宿させた。やはり家族が疎開し1人になったためだ。この人は我が家にいる間に少将から中将に出世。戦争末期には母に「負け戦になっている。奥さんも早く東京を離れなさい」と助言をしてくれた。この軍人を除けば友人の親が軍人だったくらいで、実際に軍人が多く居住していた地区は荻窪駅の南側だったようだ。南側には戦中に首相を3回経験した近衛文麿氏の住んだ荻外荘もあり、重要会議が開かれたという。 
 

荻窪駅の天沼地区・・・昭和の15年、私が幼稚園くらいには、ところどころに畑を残すのみで、ほぼ現状に近い街並みになっていた。駅南には豪邸地帯もあったが、北側の天沼は敷地50~60坪の平屋の家がほとんどの並みの住宅地だった。我が家を例にとれば敷地50坪の建売を購入したものだ。平屋で洋室1を含む計6部屋。だが東隣との塀の内側には細いイチョウの木が10本ほど植えられ、1坪の裏庭にはクリが1本あり、表の庭にはウメの木、アジサイ、ヤマブキ、アオキなどが植えられ、垣根はカナメ。現在と比べれば、緑の量が3倍ほどだったのではないか。  

浅倉、浅賀、関根、玉野といった旧農家が、住宅街の地主さんでもある。地主さんから地上権のみを買う・・・という姿の所有関係が多かった。地主さんの敷地は広く、ケヤキやイチョウの大木、スギやヒノキも多数植わっていた。つまり環境面で優れた住宅地と言えた。自動車のないに等しい時代で、家の前の道幅は4メートルほどだが、戦後ある時期まではこの道路で3角ベースボールをやったくらい・・・建物は必ず90cmひっこめて建てられ、あまり圧迫感がなくゆったりと遊べる環境であった。今は道路端ぎりぎりの2階建てが多い。10軒に1件ほどの割でマンションも建っている感じだ。  

野際さんの住まいは旧・天沼3丁目、私の住んだのは旧・2丁目だが、特に沼が目立ったのは1・2丁目と想像する。八幡神社の西手奥に湧水の出る弁天池があり、私が幼児のころもごく少ないが湧水が流れ出て、家の南50m先を流れるどぶ川の水源になっていた。明治・大正期には弁天池の湧水量が多く、どぶ川流域が沼だったと推定される。このため戦時中に防空壕を掘ると、60cmほどで水が湧き出た。戦火の中、天沼に1人残った母は「泥土に埋まるのはごめん」と空襲時には壕でなく押し入に逃げ込んだという。  

2.杉五小学校が地域のヘソ 

昭和初期の話によると、荻窪駅を降りると、次の西荻駅最寄りの東京女子大の尖ったチャペルが見え、手前に荻の花が一面に咲いていたという。しかし私の4才時の昭和15年ころには、中央線の北を走る青梅街道沿い300mほどに駅最寄りの商店街が延び、西荻方向にさらに飛び飛びながら商店が延びていた。北に向かう道路はサブ的で3本あった。西側から教会通り、八幡神社通り、稲荷神社通りと呼ばれた。教会通りには衛生病院に付帯し教会があり、通りに古本屋が2軒ほどあったのが印象深い。  

どちらかと言えばメインと言える八幡通りの商店街を越えると八幡神社にぶつかり、やや鍵の手に折れてさらに北へ進むと杉五小学校(現在の天沼小)がある。駅から900mほど、約11分である。ここが天沼のヘソと言える。他に小学校はなく、天沼の児童全員が通ったからだ。学校の北手のバス通りを「天沼本通り」とか「日大二校通り」と呼び、荻窪駅発のバス路線が西武池袋線の練馬駅まで延びていた。乗り継ぎをすれば中央線の阿佐ヶ谷、高円寺、中野駅にも行けた。  

バス道路は商店街らしき街並みになっていたが、杉五の北側のバス道路を越え、1分もかからないところに野際邸があった。したがって杉五小の校庭は野際さんにとって自分の庭のような存在だったはず。付近にはケヤキに囲まれた地主さんの広い屋敷もあった。  

野際さんの家のすぐ前の道路をさらに北へ300mも進むと、妙正寺川という流れがあって、当時は井草田圃と呼ばれている田園地帯だった。戦後の話になるが、戦時中に西荻窪寄りにあった中島飛行機の工場が爆撃され、それた爆弾が井草田圃に落ち、すり鉢状の爆弾池が2つあった。杉五小脇にあった文具店の主人が和服姿でよくフナ釣りをしていた。  

妙正寺池からコンコンと水が湧き、やや離れた上流から下ってきた川にそそぐ。この川までの50mぐらいには長さ60cmほどの青藻がゆれ動く清流。その間をフナが行き来していた。いたずらっ子であり、釣り好きだったから、井草田圃や妙正寺川に出向く頻度は近所の子供仲間の数倍多かった。野際さんも幼いころ井草田圃に数十回も訪れ、四つ葉のクローバーを探がしたり、網で魚をすくったはずだ。現在では妙正寺川もコンクリートで囲まれた人工的な川になり、川岸一杯まで人家が建っている。  

 天沼の西北に清水町というのがあり、こちらは豪邸が多く、文人の井伏鱒二さん、将棋の大山康晴さんが住んでいたが、天沼はごく普通のサラリーマン住宅地。教育熱心な地域ではあったが、特に有名人が多く住む地区ではなかったようだ。だが弁士の徳川夢声さん(駅近くの商店街の中)、作曲家の草川信さん、小説家の藤原審爾さん、フランス文学の河盛好蔵さんなどの表札を見て育った。なお太宰治さんも一時、天沼方面の安アパートに住んでいたようである。昭和40年代以降の有名人としては野際さんが光る存在だが、すでに荻窪を離れていたかもしれない。もう一人変わった有名人をあげれば、野際さんと同年齢のトップ・ファッションモデルの故・松本弘子さん(没・平成15年)があげられる。晩年フランスに在住し、岸恵子さんなどとも交流があったはず。我が家の3軒先に住んでいた。お父さんは製糸会社の役職についていたはず。姉の弘子さんにちょっかいできるはずもなく、弟さんの学生帽を取り上げたことがあるが、取りに来ないので弱り、玄関に置きにいった覚えがある。松本弘子さんの身長164cmに対し、野際さんが163cmで、野際さんもモデル並みのスタイルだったことがうかがえる。  

今は、本天沼という地名もあるが、昔は南から北にかけ天沼1丁目、2丁目、3丁目と連なり、各氏神として八幡神社、熊野神社、稲荷神社が配置され、銭湯も1つずつあった。そして杉並第五小学校には、戦時中他校から多くの見学者が来た。模範校と言えば、ちょっぴり軍事色の豊かな学校にも通じてしまう。毎朝、朝礼の前に天皇の御真影を祭る奉安殿があり、この前を太鼓に合わせドンドン・エッサと回り武運長久を願った。他の学校といえば天沼2丁目に私立の日大2中・高校(一時敷島女子中学もあり、これを吸収)があった。女優の松坂慶子さんが通った学校である。2丁目の我が家の近くに日大幼稚園(日大系幼稚園はここのみ)が古くからあり、日本大学系列が古い時代に新天地として狙ったエリアのようである。私や松本弘子さんと同様に野際さんもこの幼稚園に通ったはように思うが確かではない。  

3.集団疎開で別所温泉に 

母の教育方針は「自由放任・自立主義」で、好きなようにして良かった。このためか、人見知りせず誰とでも付き合った。小学1・2年のころは、ドイツ人のオワ・ケージロウという友人の家に、電車に乗り1人で3~4度も遊びに行った。立教女学院もある三鷹台の洋風の白ペンキの建物が新鮮だった。また同じ頃、自宅の東南1kmにある伯母の家をよく訪ねた。長女、長男、次男、次女の4人の従弟がいて、高等小学校に通うガキ大将の次男が、近所の子供5~6人と一緒に遊んでくれた。八手網を使った魚すくい、凧揚げ、ベーコマ、メンコ等、子供の遊びの手ほどきを総てしてくれた。帰りには沢山のフナやザリガニを貰って帰った。誰よりも高く凧が飛ばせるよう、大きく巻かれた凧糸をもらったこともある。 凧揚げが得意になり、野球服姿の奴凧を自分で作りもした。 

前後するが、私が小学1~3年のとき姉も同じ杉五小の4~6年生であった。野際さんに遠く及ばないが、姉は小さく、やや顔の黒い「ネズミ型美人?」であった。学校の朝礼前の遊び時間に、同級生や上級生に姉が追いかけられていて、「ねいちゃんをいじめんな」と割ってはいたものだ。男の子が可愛いためちょっかいを出しているのを、いじめていると思ったからだ。  姉が一度だけ自分の美を自慢したことがある・・・立教女学校卒業後、東京駅八重洲口にあった八幡製鉄本社に就職し、残雪のある富士山か丹沢山に行った後、「みんなにミス八幡と呼ばれていて、大切にしてくれるのよ。だから険しい山にも登れた」と言った具合である。この姉を生んだ母も41、2才当時は輝いていたようだ(すでに未亡人で女社長)。幼稚園で多摩川に遠足に行った際、カメラマンが母に付きまとったようで、卒業時の記念アルバム集に母の和服姿が多数出てきたものだ。女の小林園長先生という方は、なかなかの人格者だった。娘か息子の授業参観日に園長OBとして招かれていて軽く挨拶をしたのだが、父兄全員の前で「今日は、ここの卒業生が来てくれて嬉しい」と紹介してくれた。

昭和19年、私が小学3年、姉6年の夏、戦火を避けるため児童や老人の地方疎開が始まった。野際さんは石川県生まれで、そのあと富山県で2才児まで過ごしたそうで、出身の石川か富山の親類を頼って縁故疎開したはず(ネット情報では実際は富山県に)。集団疎開の方は3~6年生の1/2ほどに及んだのでは。疎開先は現在真田の郷のある上田市。当時、長野県小県郡別所村の別所温泉である。6軒の旅館に分宿し、宿でも勉強したが地元の別所小や隣村の塩田小に、隊列を組み軍歌を歌いながら通った。第2次集団疎開の1~2年生は塩田村のお寺に入った。私の兄たちは、それぞれの旧制姫路高校や浦和高校があった姫路市、浦和市が疎開地と言えた。ともに地元に親戚が住んでいたからだ。  

野際さんは後に立教女学院中学校・高校に進むが、別所温泉の別エリアに立教女学院小学部が疎開してきた。まったく交流はなく、当時3年生の私が事実を認識したのは戦後である。私の集団生活のスタートは恵まれたものだった。6年生の姉に従妹も加わり、「男女の兄妹、姉弟等のばあい家庭のぬくもりを維持するため」との配慮から、3人一緒に男女兄妹寮の中松屋という旅館に入った。この中に後に東大を出て昭和28年に日本音楽コンクール作曲部門第1位に輝き、長じて桐朋学園大学の学長になった故・三善晃氏もいた。美男美女の兄妹で、2人でバヨリンを演奏してくれた。

 ところで、別所温泉の背後には夫神山、女神山があり遠足でも登ったが、夏場には中腹まで行き、炊事や暖房用の丸太を3~4回は運んだものだ。自分の背丈ほどの丸太に手ぬぐいを結びつけ、片方の端を背にかけたり、そのまま引いて1~2キロ下ってくるのだ。小学3年生にとっては結構厳しかった。休憩中に山の小川で沢蟹を探すのが楽しみだった。また山の中腹には氷室という夏でも氷を保存する横穴があることを知った。山にはキノコ採りにも行ったが、別所が松茸の優良産地であることを知ったのは戦後である。

苦しい想い出と言えば、やはり空腹とシラミの攻撃だ。ご飯の量が少なく、またご飯には必ず菜っ葉や、大豆、大麦の粒が混じり、あとは味噌汁か漬物だけ。おかずとして魚が出たのは鯉のあらい、鯉こくの計3回、肉はゼロ回。上田から別所にかけ水田用のため池が10ほどもあり、鯉が飼われ唯一の海のない県の水産資源たった。冬場になる前になると親元に「大豆のはいたお手玉を送れ」と催促。大豆を炬燵で炒って食べるためだ。歯磨き粉すら食べた。病気になれば通院のため外に出られる。私達3人はこっらの行為は一切しなかった。外出できた連中は畑 でキュウリ、トマトなどを盗み食いできるので仮病を演じる仲間もいた。シラミは見たことのない生物。知らない間に全員の衣服の縫い目に何匹も並び、取っても取っても減らない。

 唯一の救いは温泉と委託錬生だった。旅館の内湯は木の樋を流れてくるためぬるい。このため外湯の「石湯」に出掛ける。別所は盆地気候で雪は少なく、外気は極端に冷える。外湯を出て、手ぬぐいを一振りすると、コチコチの板状になるが、広い石で囲まれた湯につかり、身も心も癒された。委託錬生は、毎月1回隣の塩田村の農家に泊まりに行く行事。名目上は作業のお手伝いをして帰るのだが、農家の人は疎開児童に手伝いなど一切させず、逆に最大のもてなしをしてくれた。第1回のときは久しぶりにたらふく食べ、帰路の雪中行進のさなかゲイ・ゲイと嘔吐するものが続出した。私たち姉弟が訪ねた農家は夫婦に女の子2人で迎えてくれたが、実際は上3人の男子総てが戦地に赴いていた。戦争という悲劇をしょい込んだ零細農家だった。ご主人は「いまスズメを捕ってご馳走するからな」とカイコの蚕座でわなを仕掛け、それが失敗に終わると山にウサギ取りに出かけてくれた。

もう一つ、楽しいこととして父兄の疎開先訪問があった。母は待てども待てどもきてくれず、来たのは冬になる寸前。東京で疎開児童のため砂糖や菓子などを集める仕事をし、忙しかったのだが、そうした知らせもくれなかったのだ。来ても私達姉弟に会ってくれたのは2回で計2時間ほど。甘える暇もなく帰京した。面会のルールが決められ、母は忠実に守ったのだろうと思が、「子を甘やかさず」の母の姿勢も関係していた。

 翌年2月には姉と従妹は中学進学のため東京に帰って行った。終戦の昭和20年のことである、下町地区に帰った6年生の中には、3月15日の東京大空襲で亡くなった人も多い。この帰京は行政の大きな判断ミスであった。母は「私立の中学は負担が重く入れたくない」と考えていたはずだが、「ミション系の立教女学院であれば爆撃されない」と考え、一人娘の姉を立教女学院・中等部に通わせた。3年遅れで入学したお嬢さん育ちの野際さんとは、入学動機がまったく異ったはず。なにせ母は、当時の金で5万円も残しておけば子供4人を最高学府に行かせることができる・・・と信じていた。が、戦後の物価高騰でアッという間に消えてしまった。戦後姉は、亡父の着ていたウールのワイシャツを加工した上着を着続け通学していた。幼いなりに姉に同情したものだ。
 

4.「これ以上死なせたくしない」で天沼に

・・・ここからは、特に自分史に近いものになる。お許し願いたい。前後するが環境の良さを考え、我が家が家族6人で天沼に引っ越してきたのは昭和11年である。私がゼロ才児の時だ。父は岡山で若くして小学校の校長をしていたが、「教育者の教育をしたい」との大志を抱き、まず大阪の宝文館という出販社で母とともに修行。その後東京に出て新宿区牛込で「文教書院」という出版社をスタートとさせた(現存する文教書院は昭和18年に母が会社を閉じた後、戦後にできた別会社)。大正年代である。さらに「先生たちと交流を深めたい」と、日本教育会館の隣の千代田区一つ橋2-9番地(通称・神田地区)に事業所を移した。「教育論叢」という月刊誌も出したくらだが、各種文学書、小川未明や浜田広助の童話、先生方の参考書で「趣味の小学・・・国語、算数、理科、歴史」といった学年別指導本など200~300冊ほどを出版したと思われる。農業関係では「村の学校」(昭和16年刊)や、宮沢賢治関係の図書もある。 ネットで「文教書院+近藤弥寿太 &てい」で文字検索してもらえば、5年ほど前までは5項目ほどが出てきた。父母を知ろうとするのではなく、2人が出版した貴重な書籍を今も探す人がいる証である。 

当時の神田地区はすでに地表全体がコンクリート。犬に土を踏ますためわざわざ靖国神社に散歩に行くしまつ。地元の九段中学で成績もトップながら機械体操や剣道に励んだ長男、次男が次々肺結核で亡くなった。視察者向けの模範演技も多かったことも原因である。母は「これ以上子供を失いたくない」の一心から、私が昭和11年1月に生まれたあと、天沼へ引っ越したのだ。11年は2・26事件の年だ。忌まわしい太平洋戦争へ向け、軍人が暴走を始めた年である。2・26事件の際、鎮圧の戒厳令司令部の置かれた九段の軍人会館は目と鼻の先である。しかも誕生のわずか44日後に事件は起きたのである。  

せっかく環境の良い天沼に引っ越したものの、私が3才のとき父までが結核に感染して亡くなる。この年に私は中耳炎を患い、隣町の阿佐ヶ谷にある篠原病院で手術を終え退院し、同じ阿佐ヶ谷にある河北病院を訪ねたときは、父は「すりつぶしたジャガイモ」も食べられず、間もなく亡くなった。だから、兄や姉と違い父の面影は記憶にまったくない。したがつて父の背を見て育つではなく、母の背のみ見て育ったといえる。ともあれ昭和14年ころに母、3男、4男、長女、私の母子家庭がスタートした。母は女社長となり有能な番頭の村上政吉さんという方に支えられ営業を続け、荻窪から当時の都電で神田まで通った。私は留守宅で女中さんに負ぶわれる毎日。おかげで、今も胸の肋骨のところが女中さんの背に合わさるかたちで軽くへこんでいる。ままならない時は、母は私を抱き、タクシーで支払か集金のためか、夜の神田かいわいを動き回った。

母は戦火が極限に達する前の昭和18年に出販社を閉じた。紙の配給権を講談社に譲るとともに、村上さんは講談社に移り、疎開地の北海道で「札幌講談社」代表を担ったのである。札幌講談社では「北海道の農村と文化」なる本を昭和22年に出版した記録がある。また戦後、我が家の窮状を見て、残された紙型をもとに1冊の本を再出版してくれた。村上氏は我が家の大恩人である。

 母は事業所のある神田に通い続け忙しく、兄たちに「勉強しろ」と言わなかった。兄たちは父の教育者の姿を見て育ったため、言われなくても進んで勉強した。母は教育者の父の商売下手を補う存在だった。残された色紙に父は「下渡だとて馬鹿にするないこんりんざい。酔うたためしはありはしないぞ」と書き残したくらいで酒が飲めず、来訪した客とお酒をくみかわしたのは母であった。帳尻合わせも母の仕事で、金を残したのも母の力が大きく、私が生まれたあとの住宅の引っ越し資金も母の才覚でねん出し、父の死に伴う墓の購入も母の無尽講によるもの。多摩墓地の墓は同一区画の他の墓が1坪スタイルに対し、父の墓は唯一4倍の4坪スタイルである。「教育者の夫に金の苦労はさせたくない」との配慮があったのだろう。だから父の死後も企業として存続でき、5万円もの貯金を残し(終戦直後は1戸5000円で住宅が買えた)、戦火はげしい昭和18年に営業をやめることができたのである。

 兄2人は女社長を母が続けた家庭が豊かな間に大学や旧制高校に達していた。3男は家から5分の当時ごく平凡なランクの日大2中を経て戦中に旧制姫路高校(母の出身地のため)から国立東京工業大学応用化学科、同・大学院(5年)と進み、4男は当時「不良高校」と言われた地元近くの旧制中学(5年制)を飛び級の4年で卒業。終戦の翌年に旧制浦和高校から国立東京大学の電気系に進んだ。私の友人のほとんどは、年の離れた兄2人の存在を知らない。小学校―集団疎開時代の姉の存在だけ見てきて、姉弟2人だと思っているはず。  

兄2人と姉の3人は唯一の6畳の洋間に机を並べて勉強した。兄の影響もあって、姉も数学、理科などはトップクラスだった。母は1人娘のため「何か個性を」と、天沼3丁目の桜井さんという油絵の先生のところに通わせていた。姉が貧乏ながら自信をもって立教の中・高等部に通えたのも、理系学科の強さと絵画のお陰のように思う。美術部の部長もしたようだ。だが日曜礼拝に通うことは1回もなかった。いずれにせよ豊かな時代に青春期をすごした3男と4男、斜陽母子家庭で主に育った姉と5男の私。この2つの組み合わせの間には見えない壁があったように思う。 

5.納豆売りで縄張り争いも経験 

姉が帰京し、4年生になったころ米軍の空襲も他所では激しくなったが、B29は米粒大の光をチカリチカリと放ち通り抜けて行く程度で、疎開児度は安全圏に置かれていた。「疎開効果」である。しかし食料不足は深刻さを増したようで、クワ畑は伐根されサツマイモ畑に変わり、別所小の校庭のはずれにいくつもの畑用の穴を掘り、道路で拾ってきた馬糞・牛糞を投入し、カボチャやキュウリやトマトの栽培も始めた。松の根からガソリン代わりの松根油を取り出すための、伐根作業も手伝った。

8月15日・・・終戦の玉音放送を聞いたのは、中松屋旅館の広間である。小学4年生ではガーガーと雑音もまざる放送内容を正確には理解できなかった。2~3日後に4年生担当(1学年1クラス)の先生に、小高い山の峠に当たる場所に連れていかれた。なぜこんな配慮をしたのか不明だが、先生は「日本がアメリカとの戦争に負けた。近いうちに駐留軍がこの地にも視察に来る。日本人として恥ずかしい行為を見せないように」と話した。実際、数日後にスプリングの効いたジープに4人ほどの米兵が乗りやってきた。

 私の戦後は20年12月の集団疎開から帰った日から始まる。野際さんの帰京時期は皆目わからない。東京へ帰り、高い位置にある中央線の大久保駅から見たら、焼け野原がどこまでも広がり、赤さびたバラックの陰で炊事する軍服姿の人が見えた。空には旅客機に変身したB29が朝日を受け飛んでいた。高円寺駅の近くまで爆撃にあった様子。その先の阿佐ヶ谷駅まで、線路の両側は強制疎開で空き地になっていた。 
 

杉五小の4年生として学校に出ると、さっそくお礼回りに合う。廊下でO君に殴られたのだ。先に帰り、恵まれた食事のお陰で彼は2回りも大きくなっていた。私はクラスで3,4番に小さかったが、母親譲りで気が強く(母は母の姉をよく泣かしたという)、2番目に集団生活をした上星旅館でサブ番長、番長が東京に強制退去させられた後、再び中松屋に戻ってからは終戦直後まで番長。番長として暴力を振るうことはなかったがが、番長になれば仲間の飯の一部を部屋に持ち帰らせ、余分に食事が得られた。食い物の不足する中で、「食事のごく一部だがカツアゲした」ことについて、すまない気持ちでいっぱいである。終戦直後に寮に傷痍軍人が出入り、この人の民主化のアドバイスがあってか?クーデターが起き、帰京までの4ケ月は孤立した存在だった。 

殴られたことを母に告げると、さすが気の強い母・・・「父兄会役員として、疎開児童の間食の調達など一生懸命してきた。校長先生と親しいから、今後いじめられたら校長室に行きなさい」といったあんばい。 

戦後、家に戻って分ったことは、4男の兄は戦火が激しくなるなか、子がない腹違いの姉のところに養子に入り姓が変わっていたこと(母は2番目の後妻)。だが大学卒業までは我が家に住んでいた。3男、4男とも我が家の良き時代に大学ないし旧制高校まで進み、テニス、音楽などにも通じ、後に互いの大学でソシアル・ダンス部を興し、我が家の洋室の机を脇に寄せ、従妹を呼びダンスのレッスンもしていた。家庭教師などのアルバイトで稼いでいたのでやや余裕もあったのだろう。当時兄が通ったダンスホール「カサブランカ」という名が、私の耳の底に残っている。 

帰京後すぐ平穏な生活に戻り、近所の3~6年生の8人衆・・・この上の2人を足すと10人衆。苗字のみ書かしてもらうと石黒、大塚2人、藤原3人、中野2人、高橋と私・・・で、とことん遊ぶ毎日となった。受験戦争などまったく、先生方も労働組合を結成しデモなどに出向き自習時間も多かった時代だ。缶けり、追いかけっこ、馬跳び、メンコ、ベイゴマ、そして新流行の野球と遊びの対象は豊富だった。当時、すでに高校生であった田中さんという方には、奥多摩の日原鍾乳洞近くとその他で2度キャンプにもつれていってもらった。物のない時代で、ベーゴマのシートがテントで、このテントを使ってのキャンプ。一回は川の中州でキャンプし、翌朝雨が降り急いで中州から避難したものだ。

一方で、金になるからと10人衆でガラス拾いをし、すぐあと阿佐ヶ谷方面の店から卸してもらい納豆売りも始めた。前の家の1年先輩の石黒さんと私だけは、小遣いがどうしても欲しい立場のため3年間続けた。私が5・6年、中1のときである。地元での商売は恥ずかしいので中央線を横切り、阿佐ヶ谷駅の南部方面で「なとーう、なとーう」とやった。長く続けると縄張り争いも起きる。路上で1度だけ取っ組み合いの喧嘩もした。阿佐ヶ谷駅近くの線路際には珍しく釣り堀があり、引き返す途中、しばし見学することもあった。  

収入は母に渡すことはなく、遊び道具の購入に消えた。石黒さんは主に友人たちに流行の「鯛焼き」を振舞うのに使っていた。母は私が小学6年ころには、家計の先行きに不安を抱き、昔発行していた月刊誌「教育論叢」の綴じ金具をはずしてばらし、リンゴの袋掛け用の袋を作り業者に納めいた。また文教書院の反故となった株券の端をホチキスで留め袋にし、これに塊り状の苛性ソーダを詰め、近所の薬屋に洗剤として買ってもらう仕事も始めていた。私は母に一番近いところにいたためその背を見て育ち、「おもちゃや野球のボールくらいは自分で稼がねば」の思いに至ったのだ。 

6.水泳の古橋にも会えた日大2中グランド 

戦後すぐベースボール・ブームだ。10人衆の中で資産家であるFさんのお父さんは、戦中でもゴルフ用具を持っていた。ゴルフボールをわざわざ壊し、芯のゴムボール分を取り出し、これに布を巻き、表にテント用の布を被せて、弾力性を持つ野球ボールを作った。当初はグラブもテント生地で縫って作っていた例も。バットは竹棒ですますこともあったが、さして高くないため、すぐ購入品のバットを使うようになった。 

当初は路上の三角ベース、ついで熊野神社うらの狭い空き地で社殿に向けドスン、ドスンとホームランを打つ・・・罰当たりなこともした。その後は日大2中のグランドも利用した。なにせ日大2中の庭は広く、東手に野球の立派なグランドがあった。2中は野球も結構強く、阿久根というピッチャー、橘というキャチャーがいたのを覚えている。このグランドは、一時都市対抗に出場する熊谷組に貸し出されていたほど立派だった。

陸上のグランドは1周300mぐらいあった。この陸上グランドには小学時代まで垣根が壊れていて自由にはいれた。10人衆で100m競争、幅跳び、3段跳び、槍(竹棒)投げ、マラソン(と言っても500mほど)の5種競技もした。ちょうど日本の競泳が華やかりし頃で、日曜にかの有名な水泳の古橋広之進選手が、日大の陸上部の合宿地である日大二高に遊びに来た。陸上部員と徒競走を一緒にしていたが、古橋は太くアヒルのような走りであったが陸上部の選手に負けていなかった。ところで陸上のグランドは野球には不向きだった。ボールをエラーすると、100mも追いかけねばならないからだ。  

新・文武両道の地区だった。7人衆のなかには年中クラス委員(級長)になるよな優等生ばかりで、私ともう2人が例外なくらいだった。小学5年のとき、6年生の3人は野球部のセカンドとサード、外野を守っていた。セカンドさんは後、東京大学の理系に進んだ。 

中学は誕生して2年目の天沼中学。「新制中学」というもので、生乾きの杉材を使った外壁で、窓ガラスは銀線ガラスと呼ばれた半透明の粗末なもの。このガラスはGHQが校舎のガラスが破れ放題なのを見かね、校舎用としてメーカーに特別許可したもの。中に金属製の線を入れ、強化したものである。校庭の外周は竹棒を立て囲ったもの。

 納豆売りもあって、中学入学とともに学業のほうがおろそかになっていた。小学6年のときの成績はクラスで4、5番だったが、中学に入るとともに成績は低下し、卒業のころはクラスで8・9位まで下がり、最上位の進学高校には進めなかった。金の面で満たされず、皆から「いたずら面で注目を集めたい」の衝動が働きいたずら小僧に。兄姉の異端児になっていった。中学1年のホームルームでは、奇妙な発言も飛び出した。「近藤さんたちは、昼休みに学習塾にいっている」と女子生徒のUさんが発言。なのことはない2・3人でイチジク泥棒に出かけるのを「ジュクに行こう」と言ったので誤解されたのだ。
 

カキ、クリ、イチジク泥棒も当時は「いたずらのうち」と許された。カキ泥棒に行ってトタン屋根の上に運動靴を置き忘れたことがある。履物から犯人が割れないかと2、3日心配し続けたことがある。中学の2階から樋を伝わて降りてみたり、美人下級生に2階からバケツで水を掛けようと思ったら、空のバケツまで落ちてしまったことも。おまけに逃げる際に、教室の扉にぶつかり粗末なため4つに割れてしまった。このときは歴史の担任で野球部の監督でもあるU先生が急ぎ駆け上がってきて、スナップの効いたげんこつを数発食らった。肥料用の汚わい樽をひっくり返し、近所の子供10人以上が我が家に押し掛けたことも。母は「うちの子ではない。きっとSさんよ」といったものだから、あとでクラスメイトのSにぼこぼこにされそうになった。

   
数学は兄姉ゆずりで得意科目。あとは理科、社会、歴史・地理くらいが得意で、記憶力が皆目だめで国語、英語は不得意だった。 数学のS先生はポチャリ型の美しい方。いたずらをすると、ヒヤリした手のひらで頭を押さえてくれる。ためによくいたずらをした。1人の友人と阿佐ヶ谷一の豪邸に住むS先生の自宅を一度訪ねた。納豆売りで毎日見ていた豪邸である。あとで知ったが、先生のお父さんは財界の重鎮だったようだ。アルバムを見せてくれたがビックリ。4男の兄の写真が出てきた。先生の兄さんと私の兄が大学の同期生であったのだ。先生の兄が5年前かに亡くなるまで、一緒にゴルフを続けただけでなく、兄が勤めた3つの会社の最後の日本電気は、先生の兄の引き立てもあった職場のように思う。私は数学部門だけは良かった。高校1年1学期は数学部門の3評価ともAだったので、かろうじて兄に恥じをかかせずに済んだと思っている。この先生だけとは、いまも年賀状の交換を続いている。いま老人ホームにはいられている様子。
 

7.広い広い遊びの空間があった 

天沼から4kmの円を描くと、様々な遊び場所があった。西方面では2駅先の吉祥寺駅に井之頭公園があり、西北方面2kmに善福寺池や上井草球場、さらに西北方向深くの東伏見駅に早大プール、4km先に石神井公園、東方面1kmに阿佐ヶ谷プール、南東方向3kmに和田堀公園・・・と言った具合。お嬢さん育ちの野際さんでも、親御さんとこれらに1度以上は行っているはず。だが、私のばあいは男の中の代表的な遊びっ子であり、かつ自然が大好き人間。広い空間を自由自在に飛び回った。10人衆や学友と離れ、釣りなどは単独行が多かった。  

井之頭公園では池で数回泳いだ。藻の間をフナやコイがすいすい泳ぐ、「遊泳禁止」看板のある水面に向かい桜の枝から飛び降りて泳いだものだ。早朝出かけタコ糸でコイを釣ろうとしたこともある。池の下手にスワン・ボートのプール状の人工池があり、ここでも泳いだ。汚れた池でオちんちんにばい菌がはいり、はれたことがある。早大プールには10人衆で行き、50mプールの短辺の25mをリレーで折り返すのだが、泳ぎが下手な私は溺れそうになりながらリレーをつないだ。上井草球場は戦後しばらく六大学野球が行われていた。2~3人で外野席の裏のコンクリート壁をよじ登り、無料で観戦したこともあった。終戦直後のことである。小学校のときは野球部に同行し3~4回は早実の安部グランドにも行き、大の早大ファンに育った。岡本、荒川、末次と言った名選手の名を忘れない。 先輩3人を見るため、試合があるといつもついて行くようになり、監督のT先生は私の交通費まで出してくれた。 6年生になり、先輩3人の推薦で4月だけセカンドを守った。だが、坊ちゃん刈りの頭でマスコット的に女性徒からモテモテ。3~4人が2階の窓から「がんばれ」と応援するものだからエラーばかり。5月には恥ずかしいかぎりで部をやめた。

善福寺池は中学時の遊び場。4~5人で出向き、途中八百屋でタクアンを買ってかじりながら歩き、四宮町というところに着くと、先生連が住むアパートがあった。担任の先生とともに、クラスの憧れのマドンナが住んでいた(親が教師)。全員で「〇〇さん」と憧れさんの名を叫んで、善福寺方面に逃げるのだ。池につくと20m近くはあったと思われる浄水塔のてっぺんに登り、落書きをして帰ったものだ。早朝に行き、禁じられていた釣りもした。紐を付けた大きい瓶に餌を入れて池に投入、タナゴをさりげなく捕獲する大人も結構いたものだ。  

広い空間で遊び、多くのことを知る・・・こうしてこそ適用力も身につき、人間の機微が分かるようにもなる。この後、高校や浪人、大学の生活へと進むわけである。高校前期は主に3男が東京工業大学大学院の奨学金と夜間高校のアルバイトをしながら支えてくれた。すぐ上の姉が結婚、3男と4男が就職で家を出たあとの高校後期ー浪人ー大学時代を支えてくれたのは母だ。6部屋のうち3部屋に学生の下宿人を置いて収入を得たのだ。私は高校、大学と進むなかで、松坂屋の配達を夏冬休みにした。大学1年のときには、大学の友達まで配達バイトに巻き込み、友人2人は府中の学生寮から自転車で1時間以上も掛けて運送屋のある高円寺まで来た。学徒援護会にも度々出向き、いまサクラで有名な千鳥ヶ淵の土手で当落を待ったものだ。英語や国語は苦手のため家庭教師は不適で、建築現場などのアルバイトが多かった。立教女学院の建築現場にも行き、仲間と共に行き来する女学生を遠望し、楽しんだ想い出もある。

8.学生運動という特殊体験も

高校ー浪人1年-大学時代についても少しだけ触れておきたい。誤解を受けやすいのであまり触れたくないが、学生運動時代のことである。社会科好きでもあり高校1年の時、佐田先生という日本史の先生の影響もあって左傾した青年になっていた。母のタケノコ生活を見て育ったことももちろんある。佐田先生はマークゲインの「アメリカの内幕」「朝鮮戦争の内幕」「ニッポン日記」などを読んでくれ、古事記や日本書紀のストレートな批判もしてくれた。そして高校2年時に例の「血のメーデー」を 担任教師の許可を取り2時限から見学に行き、一切騒動に参加せず「見学」で1日を終えたのだが・・・。

学校に知られていたため、警察に呼ばれ事情聴収。地元と学校のエリアを担当する杉並と高井戸の2警察署で、「騒乱罪幇助容疑」で12回ほど調べを受け、最後に指紋まで取られてしまった(本来は未成年の場合、親の許可なく指紋は取られない)。これがきっかけで高校2・3年、浪人1年、大学4年の計7年間は学生運動の最前線に立っていた。大学3年の後半は学生会委員長、2活動団体のキャップ・・・と学生運動の3長を半年ほど兼務した時もある。学生運動といっても「学園紛争」の少し前の暴力には染まらない時代で、男女別学(昭和28年=高校3年時)の反対運動、歌声運動、原水爆反対運動など穏便な活動だった。第五福竜丸の乗組員の久保さんが死の灰をかぶり亡くなった。地元杉並区の図書館長であった国際法学者の安井郁夫氏と家庭の主婦24人が中心になり、原水禁運動が燎原の火のごとく全国に広がり、浪人中は原水爆禁止の署名運動が中心であった。なお久保さんの娘さんからもらった葉書は今も残っているはず。

予備校に1学期だけ行き、2学期はオルグで地域の高校や東京女子大の組織を回る仕事もし、2泊3日のオルグ養成学校にも参加し、予備校へ通わず運動づけ。自由放任主義の母で大学時代のメーデーには手を振りに来たぐらいだが、3学期になり母から「大学に是非行ってくれ」とのことで取っ組み合いの喧嘩をした。何も技術を持たない私が、いきなり社会に出てうまく行くはずがない・・・と考えた母の抵抗は妥当なものだった。そのため受験に間に合う2期校(試験が遅い)の東京農工大学農学部に受験・合格。本来、都立大学の法律系学部に行き、弁護士になる夢を持っていたが、前年すでに1回失敗している。「遅れた農業の道を選び、日本の発展に貢献するのも、大切な選択」と自身を納得させ、授業料の安い国立の東京農工大学農学部を選んだのだ。3年の自治会長時に砂川事件が起きた。友人であり同志の武藤軍一郎君というのが検挙され、その奪還闘争が全校あげて行われた。人前に出てシュプレヒコールの音頭を取るのが苦手で、一つ橋大学の指導者にそれを任せたため、学生総会でさんざん非難されたものである。 

学生の本分を忘れず、学生運動をする・・・をモットーにしていたので、授業に出ないことも多かったが、図書館で好きな農業の分野について独学もした。3年の終わりになると学生運動免除の風習があり、7月末の国家公務員試験に向けガリ勉をした。試験場などの研究部門に就職する仲間が7~8割という状態で、「威張れる官僚になりたい」というものではなかった。独学の効果も出たのか、農学職という国家公務員試験の約940人受験者中14位の成績。沢山の学生時代の試験のなかで最高の成績であった。農学科の仲間は農業経済、畜産、園芸、農業機械の各職を受験した者もいたが、農学職を選んだのは10人ほどいて、鈴木というのが7位でクラスのトップ。14位の私は2位だった。しかし2次試験(指紋も採られる)では学生運動のためか、英語が極端に不出来のためか、正確には今も分からないが、不合格になった。 

 行く場を失いかけていた私を救ってくれたのが、10人ほどの研究室の主任教授で、後に農工大学の学長になった近藤頼巳教授であった。保温折中苗代の権威者だが、本の出版で関係のあった農協系の出版社「家の光協会」に押し込んでくれた。公務員試験の一次14位という成績だけ知っていて売り込んでくれたようで、内申書の成績は近藤教授の担当する栽培原論のみA。あとはB及びCばかり。内申書を持って再度「家の光」に出向く小倉助教授に、近藤教授は「すまないが良くできるーではなく、あまり成績はかんばしくないーと訂正しておいてくれ」と、私がいるそばで言っていたのを覚えている。

 すでに学長になっていたか記憶が定かでないが、私ども夫婦が「家の光」で職場結婚した際には仲人になってくれた。月刊誌「家の光」は当時、月150万部ほどの発行で、雑誌とすれば日本一の発行部数であった。そこで働く職員の豊かな生活ぶりを見るにつけ、高校時代の思想は「過去の想い出」に変化していった。キザだが「世のため、ひとのため働く」という理念だけは持ち続けたつもりである。そして農業経営の近代化に貢献・・・との意識は強かったが、普通のサラリーマン編集者に変わっていった。そして丸5年後、「農業のアキレス腱の生鮮品等の流通問題に切り込むため」に脱サラを選んだ。「家の光」の発行部数180万の最高部数の年であった。
 

家の光時代の途中で職場結婚した。仲人は一人が近藤頼巳教授、もう一人は桜井さんという家の光編集局主幹であった。妻が一時期お茶くみをしていて、可愛がってくれた人だ。男2人という珍しい仲人の組み合わせだった。桜井さんは、定年退職後に「生活文化社」という出版社を立ち上げ、家の光の姉妹建物のなかで宮沢賢治の「雨にも負けず」が書かれた復刻手帳を出版された。他にも賢治の復刻手帳はあるが、これが最初のものである。桜井さんはコウゾ・ミツマタで使った本格的な和紙の箱も用意し、これに賢治が持ち歩いた手帳を詰めたが、手帳は表紙も含め忠実に手触りまで再現・・・といった凝りようであった。

   
桜井さんは読書家で、古書の収集家でもあった。荻窪の古本屋にもしばしば来られた。私が独立し3年目くらいであったが、「荻窪に来たついで」といってブラリと訪ねてくださった。そして「仕事がまだ軌道にのってないなら、しばらく復刻手帳を手伝ってくれ」と助け舟を出してくれた。私はすぐに応じ1年半ほど手伝った。2人して復刻手帳1冊ごとに朱の細筆で番号を書き、毎日10冊、20冊と配給元の東販、日販に届けに行ったものだ。あっと言う間に完売した。家の光時代に原稿でお世話になった一流の新聞・週刊誌記者全員に、書評を書いてもらったおかげである。この間に中小企業診断士というコンサルタントの資格を取得し、以後の人生を決定づけた。
 

9.単身生活者が急増した感じの天沼

   最後に、改めて荻窪の商業事情についても触れておくと(これが本来の専門分野)、商業集積の3/4は駅北口の中央線と青梅街道に挟まれた三角地区に集中していた。北口側に戦後100店近いバラックとも言える専門商店街が誕生。経済の発展とともに西友ができ、一時道路を隔て東急ストアもあった。バラック商店街はやがて多層の商業ビルになり、地下には東信水産、魚力といった2大鮮魚店が覇を競い魅力の核となった。東信水産については、まだバラック時に1時1階の売り場からエアーシューターで、2階にお札を吸い上げるほど繁盛。コンサルタントとしてエアーシューターについて興味を持ち、2階に集められるお札の山を見せてもらったことがある。ビル外側の商店街には丸大青果、河内屋といった強力青果店もあり、荻窪は生鮮の魅力が特に高い地域を形成していた。かなり後になりルミネも出来た。だが荻窪を離れすでに30年以上になり、数年に1度は荻窪を車で通るが、いまの状況はよく把握していない。

 ごく最近、高校のクラス会が荻窪の某レストランで行われ、久しぶりに45分ほど荻窪の露地を歩いた。チェーン店の飲食店ばかりがものすごくふえたのにびっくりした。教会通りの奥に沢山のマンションがあるのか、この通りにニュー業態の店が沢山でき、八百屋さんは「最寄りの魚屋や肉やは一軒もなくなった」と仲間不足を嘆いていた。外食依存の単身者が急増したのではないか。

同じ中央線沿線でも高円寺、阿佐ヶ谷、西荻は高架の駅で、南北の道路が駅横に通っていた。ために線路の北側、南側をともに商圏に出来、南北をつなぐ商店街が発達。駅エリア全体を巻き込んだ夏祭りの「阿波踊り」「七夕祭り」「盆踊り大会」といった有名行事が行われている。荻窪はこの南北をつなぐ直線道路がなく、地元神社のささやかな夏祭りを経験したにすぎない。いま東西の線路を南北の道路が横切らない西武池袋線某駅の沿線族であり、改めて荻窪駅エリアに大イベントがないこととの共通性を感じている次第だ。

 なお49年住んだ想い出の荻窪から離れることになったのは、3男(当時は長男)が56才という若さで亡くなり、家の所有名義が義姉に移り、木造家屋の古さもあって売る必要が生じたからである。その後、新築戸建てや分譲団地の家を求め花小金井市ー千葉の佐倉市ー埼玉の所沢市ーいまの入間市の分譲団地・・・と流転の旅が続いた。だが合わせて30余年。天沼の約50年には及ばない。


1部 杉並区天沼物語ー野際陽子さんも住んだ土地 昭和11年~33年

2部 セリ取引の乱高下に泣く 昭和30年代後半

3部 日本のラルフネーダー竹内直一氏と出会う 昭和40年

4部 初めアメリカ流通視察で得たもの  昭和43年 

5部 青果店近代化とチェーンの実務 昭和45年から

これ以降は未稿