2017年4月1日土曜日

日本のラルフネーダー竹内直一氏と出会う(昭和40年)!

農産物流通の昭和後半史と私-②相対取引の提言

1.退社理由は単純ではない
 安定したサラリーマン(JA系「家の光協会」編集部)を辞めたのは昭和40年4月1日。2月5日ごろに、地区ごとに区分されていた「東北版」の農業取材のため、仙台に赴任せよ・・・の内示を受けた。これを拒否し「辞めたい」と会社に伝えたのは3月10日ごろだった。編集次長と東北のJA関係団体に挨拶に行く日だ。途中、編集局理事の家に辞表を届け、上野駅まで行ったものの「このまま挨拶に行けば引き返しがきかない」と思い、次長に告げず駅近くのホテルに泊まり、翌日は本社にも出向かず無断欠勤した。

   退社理由は、で述べた「農産物流通問題かぶれになったから」という単純ものではない。私は兄2人、姉1人兄弟の4番目だったが、末っ子として母と唯一生活し、この年老いた母を1人東京に残せない(母は気丈夫に東北に行けといってくれていたが)昭和39年に当時の12チャンネルの編集枠が「家の光協会」にも割り振られ、「新規のテレビの仕事をやりたい」と思ったが、担当枠2人の中にはいれなかった・・・こうしたことも理由であった。

まだ入社6年目の駆け出しの農業記者に、他社から声が掛かるはずもない。 3月20日ごろには独立時に配るべき「農業革命への提言」(A4の12ページ、上下段組。単行本にすれば48ページほどにすぎない)の原稿を、タイプ印刷会社を神田でやっていた従姉に渡し、印刷をしてもらった。無料の押し付け作業である。 この従姉と家の光時代に原稿を書いてもらった元産経新聞記者の松浦恵氏には一生涯頭が上がらない。松浦氏は昭和41年に独立し、「農経新聞」主幹になった。そして畜産の新聞を青果の新聞に変え、海外視察団を何十回も送り出す辣腕家だった。2~3年にわたり嘱託や正規の記者として働かしてくれた。またその後の4~8年間のなかでアメリカ視察2度、ヨーロッパ視察1度について無償(当方が松浦氏の代理案内人)や廉価で連れていってくれたのだ。

2.農業の基本的ハンディへの挑戦
   私が書いた名刺代わりの「農業革命への提言」(S40年4月10日)は、農業記者経験6年=29才の若造とすれば、農業の基本問題の分析に立ち、よく書けていると思っている。提言のポイントは・・・

       農業は広い農地や太陽エネルギーに依存し、(イ)固定資本の回転率が悪く、(ロ)作物という流動資本も太陽エネルギーの量に影響され、回転が悪い、(ハ)お天気頼みで生産不安定、(ハ)多数の分散生産・販売で、独占的販売の進む工業に比し、有利な販売はしにくい・・・これらハンディを克服しにくく、アメリカにおいても農業への補助は厚い。
   ②    だが補助金に頼っていては高い収入は実現できない。マネージメントなき農業に、マネージメントを導入すべきである。
   ③ 農業革命と言われているが、高度成長経済という外圧が見立ち、変革の担い手が生まれていない(若い人の流失)。
   ④ 米麦農業から脱皮、稲作+アルファ(青果や畜産)を育て、農業を所得的にも魅力あるものにする。これは蛋白+ミネラル農政への転換を意味し、若い変革の担い手も生む。
   ⑤ 水田や産地での飼料作物や草の生産を拡大し、輸入飼料に頼らない畜産の振興を。
   ⑥ 農業は土地依存度が高い。規模拡大と言っても、購入方式では進まないし、コスト・アップにつながる。「闇小作料を公然化し、農地の集中を図るべき」である。
   ⑦ また今後も農業からのリタイアーが増えるので、農協や専業農家による「請負耕作」を大いに推進。これが+アルファー部門の拡大にもつながる。
   ⑧ 非独占に甘んじるのでなく、品種や立地の特性を活かし、できるだけ地区ごとに独占的な地位を築き有利性を発揮する(後の一村一品運動に通じる)。
 ⑨ 生産品をストレートに市場に出すのでなく、農協は余剰分を貯蔵・加工できる施設を持ち、いまで言う6次産業化の担い手になる。具体例として、北海道の中札内農協、静岡県の庵原農協、愛媛県の温泉郡農協、滋賀県の水口町農協等の名を紹介(その後どうなったか?)。
 ⑩ 土地の桎梏から逃れるための、土地なし&土地依存度の少ない、ハウス栽培、一腹搾り(酪農)、土地なし養鶏・養豚などの肯定する必要がある。

・・・簡単にまとめにくいが、ざっと以上のような論旨である。農業者は、消費者に「農業の本質的なハンディ」を理解してもらう一方、ハンディに埋没してしまえば支持は得られない。これは今日的な課題でもある。

 3.相対取引推進の「流通センター新聞」発行
    当時の退職金は6年勤務で、たしか27万円であった。わずかだが残っていた借金を返し、固定電話を買えば、残りは20万円。すでに娘1人がいたが貯金もなし。母が大学生の下宿人2~3人を置き(幸い荻窪の自宅は6部屋)、これに助けられ、どうにか生活ができた。経済的に見れば、実に無謀な独立であった。それでも、高度成長入口の当時にあって「脱サラ」は極めて珍しく、出版社の方が訪ねて来て、荻窪の喫茶店で取材を受けた。あとで6人ほどの脱サラ体験者の取材本が届いた。

やはり雑誌記者という体験から、流通への思いを表現したいため業界新聞を作ることにした。その名は「流通センター新聞」。肉の枝肉センターがすでに設置されていたが、セリでなく解体した枝肉を業者に相対で売るのが特徴。青果物でも、既存の卸売市場のセリ取引を否定する相対取引の施設は、「流通センター」と呼ぶに値する。相対市場を形成していくべきだ・・・との主張から「流通センター新聞」とした。無料で配布し、広告で運営することにしたが、この目論見はすぐ破たんした。突然「新聞を作るから広告をくれ」と持ち掛けても、だれも相手にしてくれない。9万円ほどがすっ飛び、1回の発行で終わってしまった。

だが、無駄にはならなかった・・・相対や産地直取引きの事例記事のほか、広告を取りたいとの期待もあって、移動販売車の記事も大々的に書いた。たまたまA会社が「移動販売車」という、冷蔵車による近代的な引き売りを開始することが評判になっていた。このA社も、新アイデアだけに厚生省などの認可にてこずっていた。

政府は物価対策もあって経済企画庁に、新たに国民生活局を設け、農林省の次官候補の1人であった中西一郎氏(退官後に参議院議員に)を据えていた。この下に、後に消費者運動に身を投じ「日本のラルフネーダー」と言われた竹内直一参事官がいた。A社の社長が局面打開のため、何度も竹内氏に会っていたようで、私の発行した「流通センター新聞」を竹内氏に見せたようだ。こんなことで竹内氏から声が掛かり会うことができ、「近藤君、局員を集めるから、君の構想をしゃべってくれないか」ということになった。まさに「地獄に仏」である。竹内氏は東大法学部政治学科卒で、農水省ー経済企画庁と官僚の道を歩みながらも、43年に退官し翌年「日本消費者連盟設立委員会」を立ち上げ、49年に同・連盟を設立し代表委員になった。私に会った時から「世のため人のために行動する稀有な官僚」だっように思う。

約束の日に伺うと中西一郎局長、竹内参事官のほかに、一般の官僚も含め、計15人ほどが集まっていた。広い部屋の一隅であった。私は日ごろ考えているままを、淡々と説明した・・・「今の中央市場にせよ地方市場にしても、中心はセリ取引。貯蔵設備もないまま、全量をセリに掛ければ、ときに相場は2倍にも3倍にもなる。乱高下が起きれば、情報の少ないまま生産を調整し、さらに次の乱高下を産む。市場取引の改革をする一方、食肉センターのように冷蔵施設も持ち、ときに一部プリパッケージも手掛けるような流通センターを設ける必要がある」「相対取引が主流になれば、小売り側と産地の安定的な直取引も可能になる」と。

 私のレクチャーが、どの程度のインパクトを与えたかは分らない。しかしJA全農は、埼玉の戸田橋に昭和43年11月に、大阪府に47年11月に、神奈川県の大和市に48年8月にそれぞれ生鮮食品センターを開設した。当時、経済企画庁国民生活局は、物価対策を始め国民生活全体の安定のため作られた部局である。全農を呼びつけ、「新たな相対中心の流通体系を作れ」とか、市場関係者に相対取引の拡大を指示したことはほぼ間違いない。そして予約相対取引は、現在では主流に育っている。セリ+入札取引の中央卸売市場での比率は年々低下し、青果物の場合平成10年には49.3%になり、25年にはなんと11.6%にまで減っている。現在は予約相対の比率が88%までに達していることになる。

 なお、プリパッケーイジについては、東京神田市場の卸である日本一の東印・東京青果がナショナル・ホールセールなる子会社を設け、プリパッケージを開始したのが昭和40年か41年ごろ。早速、取材に行ったものだ。

4.産地直送ではヨーカドーの伊藤雅俊氏にも
 独立と同時に、小売業と産地との直取引の取材も始めていた。事例はすこぶる少なく、東京の新宿などげ看板が目立つ「甲信園」とか、杉並のほうの「一実屋」など、山梨と関係ある果物屋が、山梨のモモ、ブドウなどを仕入れ・販売するケースが見立ち、野菜の直送ケースはなかった。スーパーの中堅企業「エコス」を築いた、当時青果店を5店ほどを経営する平富郎氏にもその後巡り合ったが、やはり山梨の果物の直仕入れをしていた。車で行きやすい山梨に、ブドウやモモの優良な大型産地があり、取引しやすかったのが理由だろう。「お祭りや、その他の付き合いもし、人間関係を深めねばならず、安さの実現はなかなかできない」の声が聞かれた。

牛肉については、ダイエーがまだ祖国復帰していない沖縄に、アメリカの牛を入れ、沖縄日本間が無関税の利点を生かし、沖縄から輸入する・・・という形で、廉価輸入を実現し、話題をさらっていた。私はこんな時代に雑誌・商業界に出向き、お願いし「販売革新」「商業界」に産地直取引の記事を書き始めた。当時、まだ農産物の流通に通じた人が少なく、駆け出しの私にもチャンスが与えられた。「農産物の流通=暗黒大陸を切る」といったタイトルの記事を書いたのを覚えている。

いろいろ事例が少ないなかで、直取引きの願望ばかりが先行していたのだろう。当時、イトーヨーカドーの青果部長をしていた塙昭彦さん(後に中国進出の立役者。セブン&アイ・フードシステムやデニーズジャパンの代表取締役)から「産地直取引は、まだ実践するには早すぎる」の電話をいただき「一度話に来いよ」と云われ、イトーヨーカドー本社を訪ねた。入口付近で立って待っていると、恰幅の立派な方が出てこられ、「お客さん、お待ちならあちらの椅子にお掛けください」とさりげなく通りすぎたのが、当時の伊藤雅俊社長であった。あとで塙さんから生鮮センターの開所式に招かれ際、名刺をいただき「あの時の方」と気付いた次第だ。

 日本一、収益力の高いビッグストアを育てた方だが、「さすが他人への配慮の行き届いた方」と、この時以来イトーヨーカドーのフアンであり続けた。また塙さんの「産地直送は早すぎる」の提言と一致するかのように、かなり時間軸をずらして、ヨーカドーは他チェーンを大きく引き離す「顔の見える」シリーズの青果を揃えている。物価問題から入り、「産地直送で安さが手に入る」としたが間違い。生鮮のばあい「鮮度の良さ、素性の明確化、安定供給」などの総合要素がないと成立しない・・・と気がついたのは、かなり高度成長の進んだあとである。

昭和43年くらいに、某経済連の講習会に講師として呼ばれて出向いたとき、部長さんは「産直の取引量は少なく、かつ不安定。市場への供給より手間もかかり、高く売る必要がある」と、単協関係者に舞台裏で諭していた。これが当時の現実だった。いすれにしろ、収入はほとんどないが、私にとって昭和40年は独立後の人生で、一番意義深い年であった。